影が跡形もなく消滅したのを確認すると、棗は蛇腹剣を仕舞った。髪を濡らす雨はいつの間にか止んでおり、足元の水たまりが相変わらずの暗雲を映し出している。

「しかし、これ程までに出現頻度が高いとは。低級なインベーダーとは言え、厄介だな」

 棗の推測では、ボーンコレクターの事件が低級インベーダーの大量発生と関係あると踏んでいた。だが、どちらにしても、早く解決するに越したことはない。
 溜息交じりに視線を落とした棗の視線が、ふと或る物で止まった。それは、青年が貸してくれた傘だ。
恐らく、先ほどの戦いに巻き込まれてしまったのだろう。骨が一本曲がってしまっていた。

「……っ! すまない、折角の心遣いを……」

 棗は慌てて拾おうとするが、青年が先に拾い上げてしまった。傘についた泥を軽く払うと、にっこりと爽やかに笑ってみせる。

「いいえ、棗様は己の職務を全うされたのですし、僕を助けてくれたのですから、お気になさらずに。それに、これは僕の自己満足ですしね」

「だが……」

「そんな顔しないでください、棗様。これくらい、すぐに直りますから」

 青年は、申し訳なさそうな顔をする棗を慰めるようにそう言った。その微笑みに他意は全く感じられず、穏やかで優しげなものであった。まるで青年の人の好さを表わしているかのようである。
 棗は胸に安堵が広がるのを感じながら、曲がった骨を直そうとする青年を見ていたが。

「あっ」

 青年の声とともに、バキッという小気味のよい音が響いた。

 棗は一瞬、己が目を疑う。なんと、青年が直そうとしていた骨が、曲がっていた部分から真っ二つになっていたのだ。
 青年は「あははは」と眉を八の字にして笑う。というか、最早笑うしかないようだ。

「お見苦しいところを見られてしまいましたね。僕はどうも、力加減が苦手なようで」

 それにしても苦手過ぎるだろう。というツッコミを飲み込みつつ、棗は曖昧な頷きを返した。

「そのようだな……。だが、濡れていた所為もあって、力加減をし辛かったのだろう?」

 フォローなのだか棗自身に言い聞かせるのだか分からない台詞に、青年は困り笑いのまま首を横に振る。

「いいえ。僕はいつもこうなんです。食器の汚れを落とそうとして力を込めたら割ってしまったとか、立てつけの悪い扉の蝶番を直そうとしたら扉を外してしまったとか」

 指を折りながら失敗談を語る青年に、棗の視線は次第に泳いで行った。

「……お前はこの屋敷で一体何をしている?」

 半ば現実逃避しかけている棗の問いかけに、青年は向日葵にも似た明るい笑顔でこう答えた。

「執事です。僕はこのお屋敷で執事を務めているのです」

 整った容姿も相俟って、笑顔がとても眩しかった。
 幻聴か。と呟きそうになるのを堪え、棗は現実に意識を引き戻す。

「その不器用さで執事とは……。いや、それよりも、お前がやっていることは、他の使用人にやらせるべき事ではないのか? わざわざ執事がやる事でもあるまい」

 見たところ、屋敷は随分と広い。使用人の二人や三人いてもおかしくは無いだろう。
 だが、青年は静かに首を振った。

「いいえ。あのお方――御主人様にお仕えしているのは、僕しかいないのです」

「……ワケあり、か」

 青年は頷く。相変わらず穏やかな微笑を浮かべていたが、その表情はどこか寂しげですらあった。

「全て一人でやっているのか?」

「はい。この通り、力加減の分からない不肖な執事ですが。……それでも、御主人様は僕の作った料理は美味しいって仰られるのです」

「お前……」

 青年の顔に浮かべられた幸福そうな微笑みに、棗は思わず言葉を失いかけた。

「そうか……。お前は、良い主に仕えているようだな。そうでなければ、そんな顔は出来ん」

「ええ、あのお方は僕にとって至高の存在。あのお方の為なら、どんな事だって躊躇いません。私は、身も心も、魂すらもあのお方に捧げたのですから」

 青年の瞳は真っ直ぐとしていた。ヘテロクロミアの双眸は一点の曇りもなく棗を捉える。

「成程。全ては主のために、か」

「はい。僕は御主人様の奴隷ですから」

 ん?と棗は疑問符を浮かべる。
 青年の笑顔は良い笑顔だった。とてつもなく良い笑顔だった。

「奴隷……なのか? 執事だろう?」

「はい。執事ですが奴隷です。寧ろ犬です。御主人様の命令とあらば、例え火の中、水の中、僕は何処にでも行きましょう」

 ぐっと拳を握って力説する青年に、棗は雲行きが怪しくなるのを感じた。「そう……か」と適当に相槌を打つが、青年の勢いは止まらない。

「御主人様になら罵られようと踏み付けられようと、構わない。いいえ、寧ろ、至福の海に溺れる事が出来るでしょう」

「待て待て」

 棗は思わずツッコミを入れてしまった。
 だが、青年には効果が無い。完全に自分の世界に入り込んでしまっている。

「嗚呼、是非とも僕を口汚い言葉で罵って欲しい。地べたに擦り付けるように踏み付けて欲しいッ」

 己の想像、否、妄想に身悶えする青年を尻目に、棗は二択を迫られた。生暖かい眼差しで青年を見守るか、その場から逃げるか。
 すると、棗が悩むのを阻むかのように、青年の手が棗に伸びた。

「貴方もそう思うでしょう、棗様? 貴方と僕とは、よく似ている!」

 棗は逃げたくなった。だが、肩を掴まれてしまったので逃げられない。

「……俺には、そんなマゾヒスト嗜好は無い」

 激しく目の前の現実から逃げたくなったが、何とかそれだけは紡ぎ出した。
 だが、青年はふと落ち着きを取り戻すと、

「いいえ、棗様。僕と貴方は似ています。ただ、仕えている者が違うだけ」

 顔が近付いたかと思うと、耳元で囁かれた。耳に掛かる吐息がやけに冷たく、棗は思わず息を呑む。

「貴方は、弱者の奴隷です。彼らの為ならば、どんな手段も厭わず、我が身を犠牲にしても構わない。――そう思っているのでしょう?」

 冷水に打たれた感覚が棗を襲う。図星を突かれた棗に、青年は他意の無い微笑みを浮かべてみせた。

「棗様は、そういう目をしていましたので。己を殺して他者の為に尽くすという、そういう方でしょう?」

「…………」

「でもそれは、実を言うと、『自分』を殺しているという表現は少し違うと思うのです。他者に尽くすという事自体が、『自分』なのではないかと。僕は、そう考えています」

 飽くまでも自論ですが。と肩を竦めると、青年は棗から離れた。
 棗の耳に、青年の言葉が残る。青年はにっこりと微笑むと、唐突に言った。

「ツェーザル=シュトライヒ。それが、僕の名前です」

 ツェーザルと名乗った執事の青年は、折れた傘を持っているのとは反対側の手を棗に差し出した。

「ここでお会いしたのも何かの縁。僕の名前、覚えておいてください、棗様」

「……嗚呼」

 棗は静かに頷くと、ツェーザルの手をそっと握る。

(本当に、不思議な男だ……)

 似ている。という言葉に、一瞬だけ同意しかけた自分がいた。
 そして、棗自身、自分がしている事は自己満足の表れだという自覚はあった。だが、自分を貫き通していると思った事はなかったのだ。
 ただ、その身を削りながら我武者羅に走っていたように思っていた人生だったが、『自分』を貫ける道を見つけ、『自分』を高めていけたのだろうか。

(とうに、『自分』なんていうものは捨てたかと思っていたが……、ああいう考え方も、悪くはない)

 ツェーザルが固く握り返した手を放すと、そこには温もりが残っていた。手の平に宿った人の温かさに、思わず微笑が漏れる。

「あは、何だか友達になれそうですね、僕達は」

「友達……?」

「会ったばかりの方にそんな事を言うのもご迷惑かとは思いましたが、つい」

 同じ価値観を共有できる相手はそう居ない。ツェーザルが飲み込んだ言葉を、棗が悟った。
 己の全てを捨てて他者の為に尽くす。そう言った思考の持ち主は数少なかった。
 そんな中、似たような価値観の持ち主に会えたのだ。ツェーザルの気持ちを察する事は難しくはない。

(しかし、友達……か。考えてみたら、俺には友人らしい友人など居なかったな)

 戦いに明け暮れる毎日、その上、棗はソロ活動を得意とするバニッシャーだ。同年代の人や同じ価値観の持ち主どころか、人間対人間として、まともに接触する機会自体が少ない。
 それゆえに、友達というものを殆ど知らずに生きてきた。相談相手はいるものの、それは仕事仲間であり、相談するのも仕事の事だけである。
 棗の沈黙を拒絶と受け取ったのか、ツェーザルの眉尻が情けなく下がる。それでも、笑顔は絶やさずに、

「今のは、忘れてください。でも、またお会い出来たら良いですね」

「ツェーザル……」

 どんな声をかけていいのか分からなかった。棗はただ、彼の名前を呼ぶので精一杯であった。
 無残な状態になった傘を片手に、屋敷へ戻ろうとするツェーザルであったが、その足がふと止まった。

「嗚呼、そうだ。棗様」

「……ん?」

「折角お会い出来たのですから、ひとつ頼まれて欲しいことがあるんです」

「俺に出来る事ならば、叶えてやりたいが……」

 普段ならば直ぐに了解する棗であったが、何故か背筋に悪寒が走った。ツェーザルの物凄く良い笑みが嫌な予感を増長させる。

「傘を折ってしまった僕を罵ってください。馬鹿力で愚鈍な豚野郎と罵ってください!」

「だが断る!」

 目をキラキラさせるツェーザルの申し出を、棗は丁寧にお断りした。






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