容赦なく降りしきる雨の中、棗は己の迂闊さを呪った。
 天気予報では突然の雷雨に注意するよう言っていたにもかかわらず、傘も持たずに外出してしまったのだ。尤も、その用件というのがボーンコレクター事件の調査で、いざ戦闘になった時に傘が邪魔になるという理由があったからなのだが。

 それにしても、バケツをひっくり返したような土砂降りになるとは予想出来なかった。お陰で、被害者の足取りの調査を中断しなくてはいけなくなってしまった。

「雨は痕跡を消してしまう。早く止めば良いんだが……」

 旧市街地の通りを早足で歩きながら、棗は呟いた。今はコートを傘代わりにしているが、雨が染み込むのも時間の問題だ。早く雨宿りできる場所を確保しなくてはならない。
 雨粒が石敷きの路面に当たって弾ける。通りに並ぶのは、今となっては希少な造りの古い建築物だ。周囲に人気は無く、まるで棗だけがタイムスリップしてしまったかのような錯覚に囚われる。
 懐古主義というわけではないが、棗はそういった空間に浸るのが好きだった。自分が生まれ育った場所が、時代から取り残されたような閉鎖的な集落だったからだろうか。

「…………。懐かしいな」

 棗は、木と土の香りに包まれて育った。携帯電話がけたたましく鳴ることもなく、自動車に通行を邪魔されることもなかった。
 今の棗の目の前に広がるのは洋風の煉瓦造りの家々で、棗がいた集落の様子とは随分かけ離れているが、それでも、閑静な雰囲気は棗をノスタルジーに浸らせる。

 気付けば、棗は立ち止っていた。はっと我に返った棗が再び歩を進めようとした、その時、

「お困りですか?」

 不意に背中から声を浴びせられた。感慨にふけっていた所為か、気配を全く感じられなかった。棗は、些かの驚愕を覚えつつ、そっと背後を振り返る。

 そこには、シックな洋傘を差した青年が立っていた。慎ましやかに佇む青年は、ふと見ただけで目を引く姿をしていた。
 海の底のような深蒼色の髪が包み込むのは、白い肌に精巧に作られた整った容姿――正に美丈夫という言葉がよく似合う顔立ちだった。背筋はすらりと伸び、棗よりもほんの少し目線が高い。
 褐色のコートの隙間から見えるのは執事服だろうか。街中では滅多に見ることのないその姿も、この通りでは妙にしっくりと来ていた。まるで、この通りの一部であるかのようにすら思える。
 だが、青年の中で最も特徴的なのは、その眼であった。右目は髪色と同じ深蒼色なのだが、左目は月光を思わせる金色だったのだ。
 柔らかく微笑むヘテロクロミアの瞳に、棗は思わず息を呑んだ。

 沈黙が両者の間を支配する。だが、執事服の青年は気にすることなく続けた。

「随分と濡れてしまっているようですが、どうです? 暫くの間、雨宿りをしていきませんか?」

 青年が指し示したのは、棗のすぐ右手にある洋館だった。門は古く、塀には蔦が伝っているが、奥に見える屋敷は立派なものだ。

「あそこは……?」

「僕が仕えている方のお屋敷です。温かい紅茶も淹れましょうか」

 青年は手にしていた紙袋に視線を落とす。茶葉を買った帰りだったのだろう。
 だが、棗は頭を振ると、

「いや、いい。心づかいは有り難いが、そこまで厄介になるわけには……」

「ですが、このままでは風邪をひいてしまいますよ? ――せめて、これだけでも」

 立ち去ろうとする棗に、青年は傘を差し出す。大きく確りとしたシックなデザインの傘は、素人目で見ても高級なものである事に間違いなかった。思わず押し返そうとするが、青年があまりにも真剣に心配そうな顔をしていたので、その手すら止まってしまう。

「……あ、ああ」

 促されるままに傘を受け取ってしまった棗に、青年は満足そうに微笑んだ。さり気なく触れ合った手がやけに冷たい。気温が低い上に、この雨だ。傘を差していたとは言え、相手もかなり冷えていることだろう。

(不思議な男だ……)

 普段の棗ならば、ここで是が非でも傘を押し返しているところなのだが、青年の嬉しそうな笑みを目にすると、不思議とその気が起きなかった。青年のそれは、相手に親切心を受け取ろうと思わせるような笑顔であった。

「その、有難う……。これは必ず――」

 返しに来る。そう言おうとした、その時であった。
 棗と青年は突如現れた影に覆われる。棗が反射的に空を見上げると、頭上に異形が浮遊しているではないか。影のようなシルエットの輪郭は出来損なったかのように、ゆらゆらと揺れている。

「低級のインベーダーか。……しかもこいつは、失敗した奴だな」

 浮遊している影はエイのような形状をしているものの、その姿は霧のように曖昧だ。
 この世界と異世界の法則は必ずしも同じではなく、寧ろ、異なる場合の方が多い。それゆえに、異世界の法則に依存している者は、この世界に侵入する際にこの世界の法則に則った構成に置き換えなくてはならないのだ。置き換え損ねた者は、姿形が崩壊して低級のモンスターになり下がる。

 棗と青年の頭上に現れたのは、そういった類のものだった。青年は驚いたような表情で、それを見上げる。

「インベーダー……」

「そうだ。ああなってしまった者は、理性は残されていないと言っても過言ではない。あとは本能の赴くままに暴走するだけだ」

 棗は青年に傘を押し付けると、腰に下げていた蛇腹剣に手を添える。シルエットだけの異形に目や口のようなものは付いていない。だが、音もなく棗と青年の方を振り返ると、『視線』が二人を捉えた。
 本能が剥き出しな殺気を感じたのだろうか。青年は一瞬目を眇めると、棗の肩を掴む。

「暴走しているのならば、屋敷に避難した方が安全です」

「そうだな。お前はそうしてくれ。こいつは、俺が倒す」

「もしかして、貴方は……」

 棗の背中の大きさに気付き、青年は肩から手を放す。

「戦う術を持たぬ弱者を虐げる者を消し去る――バニッシャーだ」

 コートで隠していた蛇腹剣を抜き放ち、インベーダーと向かい合う棗。その姿を見た青年は、己の推測の確信に目を輝かせる。

「やはり、そうでしたか。貴方がシティホライズンの市民の味方、月詠棗様なのですね」

「……!? な、なんだ、それはっ」

 一般市民の味方というつもりはあったものの、それについて宣伝した記憶はない。極力人目に付かぬところで、影のように活動してきたつもりだった。
 思わず振り向く棗だが、青年は憧れのヒーローにでも会った少年のような瞳で棗を見つめていた。棗は、そのキラキラとした視線に気が遠くなるのを感じる。

「駅前で魔女の姿をした女の子がそう仰ってたんです。それはもう、街頭演説かと思うくらいの大声で。それ以来、棗様とはどんな方かお会いしてみたくって」

「アマリリスの仕業か……」

 後できつく言っておかなくては、と棗は心の中で呟いた。
 飽くまでも水面下で影のように活動をしたい棗にとって、日向のヒーロー役は厳し過ぎる。派手好きなアマリリスには不満があるかもしれないが、棗はヒーローではなく、ただの刃として淡々と屠るべきものを屠って行きたいのだ。

(そう、戦いの中に『俺』は要らない。刃はただ、相手を討ち滅ぼすのみ)

 刹那、棗は動いた。青年をかばうように地面に伏せた瞬間、影が両者の頭上を掠めていく。烈風が棗の漆黒のコートを煽った。

「お前はここに居てくれ。あの程度ならば、すぐに片付けられる」

 棗は青年にそう言うと、蛇腹剣を片手に立ち上がろうとした。だが、

「で、ですが、貴方一人に任せておくわけには……」

 引き留めるような青年の言葉に、棗はふと苦笑めいた表情を浮かべる。共に立ち上がろうとする青年の肩に手を添えると、首を横に振った。

「心遣いは無用だ。こういった仕事は、戦う術を持つ者がすべきだからな」

「棗様……」

「俺はただの刃。力無き者に仇為す者を屠るだけの道具だ。だから、有名になる必要も気を遣われる必要もない」

 青年と、そして自分に言い聞かせるように淡々と言葉を紡ぐ。
 一方、影は旋回して棗達の方に向き直った。再び突進して来るというのだろうか。

「己の衝動を抑える術を失くし、暴走する力と化してしまった者……。お前はもう、ただの殺意の塊でしかない」

 棗が足を踏み出したのと、影が突進してきたのは同時だった。迫り来る烈風を前に、刃がぎゅるりと渦を描く。

「これ以上この世界を蹂躙するというのなら、眠れ。――永久に!」

 刹那、宙を舞った蛇腹剣は龍と化した。飛び掛かって来る影に牙をむき、風を切り裂く。
理性を失っている異形になす術はない。影はまるで紙のように簡単に切り裂かれ、呆気ない幕切れとなった。






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