そして、神聖なる誓いの下で、病院から立ち去ろうとしている者がいた。
 パーカー姿の少年は、携帯電話に届いたメールを確認すると、踵を返す。

「あ、いたいた。待ってよぅ、澪っち!」

 背中を追うようにして掛けられた声に、澪は思わずそのまま逃げ去ってしまおうかと思った。だが、箒にまたがった魔女帽の少女が目の前に降り立つことで、その手段が阻まれる。

「待合室にいたのなら、そう言えば良いのにぃ。てっきり、本当に帰っちゃったかと思って」

「別に……どこに居たって良いだろう。俺の勝手だ」

 澪はぷいっとそっぽを向いた。手にした携帯電話の液晶画面には「棗さんが目を覚ましたよ」という、絵文字だらけのメールが映っている。送信者はアマリリスだった。

「澪っち、診察が終わるなり、『事件が解決したのなら、俺は帰る』とか言って、どっかに行っちゃうんだもん。本当は、棗さんのことが気になってた癖にぃぃ」

 ご丁寧にも澪の口調を真似るアマリリスに、澪はおもむろに舌打ちをする。

「何だ、このウザイ生き物は……!」

「ちょ、人間扱いじゃない!? 酷いわよぅ。この天才美少女魔女っ子アマリリスちゃんに向かって、ウザイ生き物扱いするなんてぇ!」

 アマリリスは頬を膨らませて抗議の声を上げるが、澪は「しっ、し」と手で払った。

「お前の相手をしていると疲れる。俺は、さっさと次の事件を解決しに行くとするよ」

「……次の事件っていう事は、この街から居なくなっちゃうの?」

「そうだな。俺は月詠と違って、『流れ』だしな」

 ひょいと肩をすくめながら、澪はアマリリスの脇を横切った。アマリリスが名残惜しそうな視線を送るが、歩を止める事は無かった。

「そうだ。月詠に伝えておいてくれ。『機会があったら、また共に仕事をしたい』と」

「うん。バッチリ伝えておくわよぅ。っていうか、直接言えば良いのにぃ」

「……いい。そこまでする必要もないしな」

 澪はひらりと手を振る。アマリリスも、相手に見えていないと分かりながらも、千切れんばかりに腕を振った。

「澪っちー! あとで、メールするからー!」

 大声で叫ぶアマリリスに、病院の門を出る寸前の澪は視線だけそちらに向けると、

「好きにしろ」

 そう言い残して、その場を去っていった。
 その表情は、遠目ながらも僅かに笑っているように見えた。



 ツェーザルがクロニクルと共に病室に戻ると、棗は既に帰り支度をしていた。激戦ですっかり襤褸(ぼろ)切(き)れと化したコートを手にしながら、二人の事を迎える。

「棗様……? もう、退院するのですか?」

「嗚呼。あれくらいの怪我、一晩寝れば大体は治る。――それに、俺は休んでいられないからな。先程、メールをチェックしたんだが、依頼が数件入っていた」

「急ぎの、依頼なんですか?」

「依頼が来る以上、全てが急ぎだ。そこに、困っている者がいるのだからな」

「……棗様」

 ツェーザルは心配そうな面持ちで棗を見つめる。もしかしたら、本調子に戻ったように振舞っているだけかもしれない、と。
 例え、自分の手足が動かなくなろうとも、救済の手を求めている人間がいれば、迷わずそこに駆けつけるだろう。月詠棗がそういう人物だという事は、互いに限界を超えた死闘を繰り広げた者としてよく分かっていた。
 無理をするなと言っても、無理をするのが棗だ。休んでくれと言っても、休まないのが棗だ。
 ツェーザルが棗にかける労わりの言葉を選んでいると、すっと目の前に小さな紙のようなものが差し出される。棗の名刺だった。

「これは……?」

「何か困った事があったら、連絡をくれ。…………困った事が無くとも、気軽に訪ねてくれて構わない」

 棗の名前と事務所の連絡先が書かれた名刺の裏には、丁寧に地図まで載っていた。ツェーザルは驚いたような顔をして、律儀でシンプルな名刺と棗の顔を見比べる。

「棗様……、良いのですか?」

「お前が迷惑でなければ受け取ってくれ。要らないなら処分してくれて構わない。――それと……」

「それと?」

「『様』はやめてくれ。もっと、気軽に呼んで欲しい」

 ツェーザルは一瞬、その意味が分からずにきょとんとするが、次の瞬間、棗が言わんとした事に気づいた。

「――はい。分かりました、棗『君』」

 ツェーザルの顔に自然と毀れた笑みは柔らかく、都市を包む朝日に照らされて、よく映えていた。棗もそれにつられるように、ふっと仄かな微笑を讃える。

「棗君、僕は貴方に会えて良かった。僕に力になれる事があったら、遠慮なく言ってください。少しでも、償いをしたいから」

 それは、自分が殺めて来た人間達と、自分が傷つけた棗とその仲間と、自分の存在に恐怖した人々への償い。少しでも、人々の不安と恐怖を払拭したかった。自分には、棗と同じく、それが出来る力があるのだから。

「勿論だ、ツェーザル。また会おう」

 ツェーザルの決意を読み取ったのか、棗は右手を差し伸べる。ツェーザルは迷うことなく、その手を確りと握りしめた。
 黒曜石のような闇色の瞳がツェーザルを、月と海を抱くヘテロクロミアの瞳が棗を映し出し、互いの絆を確かめ合う。



 棗は、ツェーザルとクロニクルから何度も謝礼の言葉を受けながら、病室を後にした。
 アマリリスが待合室で待っている筈だ。待たせてしまっては申し訳ない。

(しかし、バニッシャーは障壁を打ち砕くだけでは……ないんだな)

 棗の右手にはツェーザルの手の温もりが残っている。彼はもう、棗が破壊すべき標的ではなくなっていた。寧ろ、心強い仲間となる事だろう。
 今まで、標的とあらば壊し続けて来た。それが、バニッシャーなので、当然と言えば当然なのだが、今回の一件で何かが変わった気がする。

(全てがツェーザルのような奴でない事は確かだ。どうしようもなく、救えないような者もいる。だが――)

 それでも、希望を捨てたくはなかった。分かり合えるかもしれないという、とても小さいが、大いなる希望を。
 ツェーザルのように、来栖澪のように、歩み寄れる者は居る筈だ。屠らなくてもいい者がいる筈だ。
 そう思うと、少しだけ胸が軽くなった。
 開院前で慌ただしくなる病院の廊下で、棗は颯爽と歩き出す。小さくても待っているだろう、未来の希望に向かって。






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