ツェーザルは執事服の袖に触れると、銀のカフスボタンを外し始める。 「もう少し享楽に興じていたいのですが、いつまでもそうしている訳にはいきませんしね。それに――」 血で汚れたボタンを外していったかと思うと、空に向かって執事服を脱ぎ捨てる。暗幕のように広がったそれは、二人の間に影を作った。 「僕だけが愉しい想いをしていては申し訳が立ちません。この痛み、是非とも棗様にも御裾分けをしなくては」 放り投げられた執事服の向こうに見えたのは、口の端を歪めたサディスティックな笑みであった。金の左目が妖しく輝く。 「基本的にマゾだが、痛みの限界を超えるとサドになるの……か? ちっ、変態のデパートのような奴め」 柵から身を乗り出すようにしていた澪は、隣で同じような体勢をしていたアマリリスを下がらせる。まるで、彼女をツェーザルから守るかのように。 「ううう、イケメンなのに勿体ないよぅ。で、でも、何かヤバい感じかも……」 ツェーザルの様子は先程と全く違っていた。飽くまでも自分の道を押し通す手段として戦っていた時とは違い、双眸が酔ったように据わっており、不気味な雰囲気を醸し出している。 棗もそれを感じ取ったのか、強張った表情で蛇腹剣を拾い上げた。刃を返し、戦闘態勢を整えようとする。だが、その時、 ずんっ! 棗とツェーザルの間の地面に、ツェーザルの執事服が減(め)り込(こ)んだ。減り込んだという表現は決して大げさなわけではなく、落下地点は小さなクレーターを作り上げている。 「な、なんだ……あれは」 棗は我が目を疑った。執事服に錘でも付けていたというのか。一体何の為に。いや、それ以前に、今まで地面に減り込むほどの錘を付けて戦っていたというのか。 「棗様、余所見をしている場合ではありませんよ」 ツェーザルの声が目の前で弾けた。 「な……!」 それは一瞬のことだった。ツェーザルはたった一跳躍で棗に接近し、手にした斬馬刀を振り上げる。完全に不意を打たれた棗は、後方に倒れ込むようにして回避する他なかった。 刃が肩を掠め、空へと突き上げられる。がら空きになったツェーザルに反撃しようと、棗が蛇腹剣を振るおうとした、その時であった。 過ぎた刃から一瞬遅れて、違和感が肩口を走る。次の瞬間、肉を裂かれる痛みと共に、鮮血がぱっと飛び散った。 (馬鹿な……! 確かに避けた筈だ……っ) 肩に広がる熱い感覚を堪えながら、蛇腹剣を蛇のようにしならせる。だが、ツェーザルは首を僅かに傾げてかわしてしまった。 「どうです、棗様? 僕からの痛み、受け取って貰えましたか?」 「――っ!」 棗は鞘を引く。すると、ツェーザルの脇を通り過ぎた刃が、首をひねらせて戻ってくるではないか。 再び勢いを得た蛇腹剣は、ツェーザルの後頭部を目掛けて牙を剥く。だが、 「残念ながら、そこに頂く訳にはいきません」 唸る切っ先は、血に染まった手袋をはめた左手の甲に止められた。刃越しに伝わってくる肉を刺す感触に、棗は表情を歪めるが、当のツェーザルは平然としている。 「ツェーザル……シュトライヒ……!」 「それにしても棗様。貴方は本当に素晴らしいお方です。僕に本気を出させたのは、貴方が初めてですよ」 左手を振るうと、突き刺さった蛇腹剣が鮮血と共に地に落ちる。悠然と棗に歩み寄るツェーザルに対して、棗は肩で息をしていた。 棗は全力の攻撃を立て続けに行っている上に、魔獣化までしてしまったのだ。日常的に人間の姿でいる彼にとって、魔獣化ではかなりの体力が削られる。とうに、体は限界に近かった。 肩に受けた傷がずきずきと痛む。今までは周囲を巻き込む爆風のような攻撃だったが、今のは周囲を切り刻む無慈悲な爪である。直撃したが最後、魔獣族の再生力を持ってしても致命傷は避けられない。 「……どうしても、コードゼロを入手しようというのか。他の方法では、お前の主は導けないのか……!」 訴えるような棗の言葉に、ツェーザルはふっと苦笑した。気の所為か、その表情はどこか寂しげですらある。 「御主人様の憂いを晴らす他の方法、僕には分からないんです。――もし、他の……それこそ、誰も傷つかない方法でもあるのなら、喜んでそれを実行していることでしょう」 「…………ツェーザル」 「ですが、そんな夢のような話、あるわけがない。どんなに情報を集めても、犠牲、犠牲、犠牲」 吐き捨てるような言葉。それは、悲鳴のようにも聞こえる。 「御主人様の体を作り上げるのも、僕の体だけで済むのなら喜んで差し出した。けれど、必要なのは複数の生贄と術者。僕一人では、術者を務めるのが精一杯だった……!」 ツェーザルは叫ぶと同時に、ざんっと前足を踏み出した。それと同時に、携えた刃の輝きが一層鋭くなる。 「どれだけ力をつけようと、人は無力なんです。一人では何も出来やしません」 「…………」 棗は彼に掛ける言葉が思い浮かばなかった。棗もまた、自分が出来る事と言うものに絶望していた時期があった。大きな力になす術もなく、守るべき者の犠牲を許してしまった事もあった。 ツェーザルの気持ちは痛いほど分かるのである。分かるからこそ、どんな慰めの言葉も届かない事を知っていた。 「……ツェーザル、これだけは言える。そのまま走れば、その方法でコードゼロを入手すれば、お前はきっと、後悔する事になる」 棗の言葉に、ツェーザルは乱れた髪を掻き上げると、すっと作られた微笑を貼り付けた。常に自責の念に掻き乱されている素顔を隠すための、仮面を。 「何を言うかと思えば。……コードゼロさえ手に入れれば、御主人様の憂いは晴れる。御主人様の幸せは、僕の幸せですから」 「そう、か……」 棗は小さく溜息を吐くと、蛇腹剣を構え直した。 「ならば、もう語るまい。行くぞ、ツェーザル=シュトライヒ!」 |