「――そちらですか!」 刃を走らせようと振り返った瞬間、ツェーザルは我が目を疑った。 瓦礫の雨から抜け出し、月の光を背に現れたのは、闇色の黒馬だったのだ。ツェーザルの目が反り立った二本の角を捉えた頃には、黒馬の前足がツェーザルの胸部を蹴り上げていた。 「がはっ……!」 肺の酸素を絞り出されたような声を上げながら、ツェーザルの体は宙に浮く。その隙を狙うかのように、黒馬の角がツェーザルの右手を突き上げた。 「――しまった!」 斬馬刀が手から零れる。コードシステムによって具現化されている斬馬刀は、彼から離れたら姿を維持出来ないのだ。 だが、ツェーザルが拾おうとするよりも早く、いや、体勢を整えるより早く、二本の角を持った黒馬――二角獣(バイコーン)の後ろ脚が飛んで来た。地に足がついていないツェーザルになす術は無い。 岩を砕くような音が響いたかと思うと、彼の体はきりもみ状態で庭木を薙ぎ倒し、背中から塀に突っ込んだ。積み上げられた煉瓦が崩れ落ち、土埃が霧のように立ち込める。 無言で見下ろす月を背に、バイコーンの角が鋭く輝く。それは、漆黒の毛並みの黒馬が異形たる魔獣である事を示していた。 「ど、どうして……? どうして、こんなところにバイコーンがいるの? 棗さんはどうしたのよぅ」 バルコニーから身を乗り出すようにして戦いを見ていたアマリリスは、不安そうな顔で棗の姿を探す。だが、影も形も見当たらなかった。 アマリリスの問い掛けに呼応するかのように、バイコーンが顔を上げる。身震いを一つしたかと思うと、その野生味を帯びた体躯から闇が溶け出した。 流れ出した闇は夜風に消え、徐々にその輪郭を崩していく。 「アマリリス、お前も気付いている筈だ。あのバイコーンが、あいつが、月詠棗の正体だ」 澪の言葉と共に、バイコーンを覆っていた闇が晴れた。 そこから姿を現したのは、漆黒の髪に闇色のコートをまとったバニッシャー――棗の姿だった。 アマリリスは思わず息を呑む。 「――棗さん……!」 「月詠の一族。それは、何百年も前にこの国に渡来した魔獣の一族の事だ。……月詠棗はヒューマンではなくネイティブなんだ」 衝撃的な一言に、アマリリスは柵に捕まって体を支えることで精一杯だった。今まで、心の師として慕って来た棗は、人間ではなく異形の者だったのだ。人間離れした身体能力もまた、魔獣族ならではのものなのだろう。 青ざめた顔で見下ろすアマリリスに、棗は無言だった。ただ静かに、いつものように闇と共に佇んでいる。 まるで、夜を体現するかのような人物。それが、棗であった。 「…………月詠の一族と俺の一族――来栖一族には因縁があった。両者が交わったのは数百年前、退魔師と魔獣として……」 澪は遠い目で棗を見つめる。否、もしかしたら、彼が知らない遥か昔を見つめているのかもしれない。一族の先祖が過ちを犯した、遥か昔を。 「月詠の一族は人間との共存を望んでいた。豊富な知識と柔らかい人柄は、彼らが魔獣である事を隠していれば何処にでも溶け込めた」 だが、その中の一人が暴走し、共存を約束し合おうとした人間達を支配しようとしたのだ。魔獣と人間では力の差は歴然で、人々は恐怖に屈服するしかなかった。 それでも、月詠の一族はその者の凶行を抑え、一族の不祥事は一族で片付けたのであった。 「月詠の一族の暴走は一時的なもの、しかも、個人のものでしかなかった。だが、月詠の一族に恐れを抱いた人々は、彼らを排除すべく退魔師を呼んだ」 「それが……澪っちのご先祖様ってワケ?」 恐る恐る尋ねるアマリリスに、澪は頷いた。 「退魔師は人に害をなす異形を退治するのが仕事だった。多くの人間を助け、多くの異形を屠った。誇るべきご先祖様さ。……だが、冷静ではなかった」 退魔師は恐怖に囚われた人々の言葉を鵜呑みにし、月詠の一族を人間の住処から追い払った。彼らの抗議に耳を貸すことなく、偏った正義を貫いてしまったのだ。 「後で調べて分かった事なんだが、その後、月詠の一族は人里離れた場所で暮らしていたんだろ? しかも、インベーダーの襲撃で集落を滅ぼされたって……!」 澪はバルコニーから乗り出さんばかりに叫ぶ。無言の棗は、表情を変えることなくその言葉を受けていた。 「それに、退魔師とのやり取りでは、武力的な抵抗は殆どしなかったそうじゃないか。さっきの戦い方を見る限りでは、月詠の一族が束になれば、退魔師の一人や二人、敵ではない筈だろ!? どうして、黙って身を退いたんだッ!」 今にもバルコニーの柵を越えてしまいそうな澪を支えながら、アマリリスは唇を震わせて棗の様子を見つめる。 |