ツェーザルは走っていた。普段の彼ならば、必要以上に音を立てることを嫌い、屋敷の廊下を走ることなど考えられなかった。

 だが、今は違う。

 長い間待ち望んでいた、主の復活。いや、誕生と言うべきなのだろうか。醜悪な姿をした哀れな主が相応しい姿となるのだ。
 ツェーザルにとって、主が肉塊だろうが何だろうが構わなかった。だが、主は違うだろう。

 (一刻も早く、高貴な存在に相応な姿へと変えて差し上げたい)

 その一心で、ツェーザルは主の部屋に向かっていた。
 主の為であれば、どんな犠牲も厭わない。例え、それが屍の山を築く事になろうとも、貫けるだけの覚悟があった。もし、彼の手や足をくれと言われれば、喜んで切り落とす事だろう。

(御主人様にお会いしてから、どれくらいの月日がたったのだろうか……。ほんの数年しか経っていない筈だけれど、遥か昔からお傍に仕えているような気がする)

 それだけ、首を長くしてこの時を待ち望んでいたという事だろう。長い廊下の突き当りに見える扉に向かうツェーザルの脳裏に、主と出会った頃の記憶が鮮明に蘇る。



 数年前、ツェーザルは貴族の屋敷で執事をしていた。主の名はアルバート=オルグレンといい、貿易企業のオーナーをしている男だった。
 だがある日、順調だった彼の生活に罅が入る事となる。不慮の事故で、愛する妻が亡くなってしまったのだ。
 それ以来、アルバートは屋敷の地下室に引き篭もり、日の下に出てくることは無くなってしまった。
 アルバートは日に日にやつれ、かつての面影は失われていった。上手くいっていた事業活動も破綻し、従業員も使用人も彼から離れてしまった。
 それでも、ツェーザルはアルバートの傍を離れようとはしなかった。メイドが辞めてしまった後も、彼は地下室に食事を届け続けたのである。

 そんなある日――運命の日とも言えようか――、アルバートが自ら、ツェーザルを地下室に呼んだのである。初めての事に、ツェーザルは嬉しさを感じると同時に、嫌な予感を胸に募らせていた。

「さあ、見てくれ。これで私の妻、コーデリアが蘇る」

 アルバートがそう言って披露したのは、床に描かれた複雑な魔法陣であった。その中央には、墓に埋めた筈のコーデリアの棺が安置されている。
 血のような赤で描かれた魔法陣は、かつての精悍な面立ちの影すら残っていない死人のような顔の主と相俟って、不気味さを醸し出していた。
 アルバートは儀式魔術を使うエンシェントの血筋の者だったのだろう。壁が魔術書と思しき書物で埋まっており、儀式に使うであろう道具が地下室を支配していた。
 儀式魔術に触れた事すらない上に、エンシェントでもないツェーザルは、その空間が恐ろしくて仕方がなかった。だが、それ以上に、

(これで奥様がご復活するのであれば、旦那様もまた、元気になるだろうか)

 胸の奥に暗雲が広がり、直観が警鐘を鳴らすにもかかわらず、主の願いを叶えたいという想いの方が強かった。

(今の旦那様には、どんな言葉も届かない。奥様ならば、あるいは……)

 嘗ての主を取り戻す為であれば、主に再び喜びと笑顔が戻ってくるのであれば、どんな事でもしようと決意した。
こうして、ツェーザルが見守る中、アルバートは儀式を完成させる。魔力を帯びた魔法陣が輝き、徐々に棺へと集中して――。
 刹那、ぼっという唐突な音と共に、棺は炎に飲み込まれた。

「――なっ! なんだ。何が起こった!」

 血走った目を剥くアルバート。その背後、地下室の入り口から、幾つかの人影が現れる。背格好はバラバラだが、皆、同じようなローブを身に纏っていた。
 彼らの顔は目深に被っているフードの所為で見えない。シンプルな漆黒のローブの特徴を敢えて述べるとすれば、右胸に掲げられた三つ首の竜の紋章であった。

「アルバート=オルグレン。汝、死者蘇生という禁忌を破った罪により、裁きを受けよ」

 機械のように無感情な言葉が、アルバートとツェーザルに突き刺さる。入口を背に、彼らを取り囲んだのは、五人のローブ姿であった。
 地下室の出口は一つ。ツェーザルは覚悟を決める。

「旦那様、お逃げください。僕が時間を稼ぎます」

「ツェーザル……」

 ツェーザルは手近にあった儀式用の長剣を手に取る。一か八か、相手を撹乱した隙に主だけ逃がそうというのだ。

「邪魔をするというのなら、お前にも裁きを受けて貰おう」

 中央に居るローブ姿は右手に炎を出現させた。チャンスは一度だけ。炎を解き放とうとした瞬間を狙い、一撃を浴びせるのだ。もし、相手の方が早かったとしても、長剣は振り上げさえすれば、あとは下ろすのみである。
 内臓にきりきりとした痛みがまとわりつく。汗が頬を伝い、執事服を濡らした。

 だが、

「ツェーザル、危ない!」

 背後にいたアルバートがツェーザルの体を突き飛ばす。その次の瞬間、アルバートは斜め前から飛来した炎に全身をまかれた。

「旦那様ッ!」

「……ツェーザル……すまなかった……」

 炎に包まれながらも紡ぎ出したその言葉が、駆け寄ろうとするツェーザルを拒んだ。見る見るうちに焼け焦げていく唇が、微かに続きを紡ぐ。
 コーデリアと共に、と。

「邪魔者を屠ろうと思ったのだがな。自ら飛び出すとは都合がいい」

「この男はどうする? 使用人のようだが」

「始末しろ。目撃者は消せというのが、ハイア様の御命令だ」

 口々に囁かれる言葉は、ツェーザルの耳に届いていなかった。今や炭となってしまった主の遺体を前に、心臓をもぎ取られたかのような喪失感を覚える。

「旦那様……、アルバート様……」

 がくりと膝を折って崩れ落ちるツェーザルのもとに、無慈悲な手が翳された。

「安心しろ。すぐに主の後を追わせてやる」

 ローブの人物の右手に魔力が集中し、拳ほどだった炎が人の頭を包みこんでしまうほどに成長する。近づけば焼けるほどの熱を感じさせるが、ツェーザルにはそれを察するだけの感覚が残されていなかった。

「一足先に逝くがいい、終末の地へ。――アズィーム・アル・トゥバン」

 聖句と思しき言葉と共に、炎がツェーザルを包み込もうとしたその時であった。炎よりも魔法陣の輝きよりも眩い光が、天井に広がったのは。

「な、なんだ!? 何が起こった!」

 目がくらみそうな程に白い輝きが辺りを支配する。それと同時に、耳を貫きそうな耳鳴りがその場にいた者を襲った。

「――ッ!」

 流石のツェーザルも、これには顔を上げざるを得ない。
 まるで純白のような光の粒子が降り注ぎ、視界を白く染め上げる。天の使者の降臨を連想させるかのようであった。

「まさか、奇跡……か」

 ツェーザルに魔法を放とうとしていた人物は、思わず術を解除する。天井を仰ぎ、降り立たんとする何者かに祈りを捧げようとするが――。

 ぐしゃっ。

 天の御使いの降臨というには余りにも粗末で、生々しい音が響いた。
 降りて来たのは美しき天の御子ではなく、禍々しく醜悪な姿をした肉塊であった。幼い子供ほどある肉塊は、祈りを捧げようとした者の顔にまとわりつく。途端に、じゅうという鈍い音と共に、顔の皮膚が剥がれ落ちた。

「ひっ…………!」

「ば、ばけものッ!」

 ローブ姿の人物達は、顔面が溶かされて崩れ落ちる同志を見て、我先にと一斉に逃げようとする。だが、狭い入口は彼らを許容する事は出来なかった。
 ぐしゃ、べちゃ。
 肉塊から伸びた触手に囚われ、次々と倒れて行く人々。腐肉の臭いが充満する中、ツェーザルは感情の無い瞳でそれを見つめていた。
 腕をもぎ取られ、背中を焼かれ、頬を溶かされた人間が床に転がる。目深にかぶっていたフードが意味をなさなくなっていたが、顔面が溶解している状態では元の顔が分からなかった。

 五人の惨たらしい遺体が転がる中、肉塊はツェーザルの方を振り返る。
 臓物のような桜色をした肉塊は、蛇のような触手を動かしながらゆっくりとツェーザルに近づいて来た。
 触れられれば溶かされてしまう。ツェーザルは彼らと違い、何の特殊能力も持たないヒューマンだ。万が一にも助かる事は無いだろう。

 それでも、ツェーザルは動かなかった。
 床を濡らし、魔法陣を溶かしていく肉塊。その触手の先端がツェーザルの頬に触れようとした時、ふと、彼の口が動いた。

「――寂しい、のですか?」

 触手の動きが止まる。ツェーザルの何も映していないように見えたヘテロクロミアの瞳は、真っ直ぐと肉塊を見つめていた。

「僕も、独りです」

 悲しげな笑顔を作る。それは、異形に向けるようなものではなく、一人のヒトに向けるような表情であった。
 目も鼻も口もない肉塊であったが、ツェーザルの顔を見上げているようだった。暫くその場で停止していたが、やがて、ツェーザルに向かって恐る恐る触手を差し出す。

「何故か分からない。でも、僕には伝わって来るんです。貴方の寂しさが」

 ツェーザルは嵌めていた手袋を取ってしまうと、目の前に出された触手にそっと触れた。ぴりっという静電気に刺されたような痛みを感じたが、ローブ姿の者達のように溶ける事はなかった。

「そんな姿で、何処だか分からない場所に捨てられて、辛かったんですね。縋りつこうとしても、貴方から溢れる力が相手を壊してしまう……」

 肉塊が震えた。まるで、ツェーザルの言葉に反応しているかのようであった。

「――大丈夫。ここには、僕がいます」

 ツェーザルは膝を折ると、そっと肉塊を抱き締める。肉塊は恐る恐る触手を伸ばし、まるで壊れものに触れるかのようにツェーザルの髪を、頬を、背筋を撫でた。

「僕の名前は、ツェーザル=シュトライヒといいます。以後、お見知り置きを……」

 肉塊から言葉は返ってこない。それでも、ツェーザルは腕の中の肉塊が頷いている事が分かった。






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