エンブリオとの話し合いの後、棗はエンブリオカンパニーとの契約を絶った。 それは、棗がインベーダー退治専門の事務所を構え、独立することを決意した為であった。 エンブリオが個人的にバックアップをすると申し出るも、首を縦に振ることはなかった。エンブリオがエンブリオのやり方で進もうとしているのと同じで、棗も棗のやり方で進みたかったのだ。 「ヒト一人の力は小さい。だが、それで何処までいけるか、やってみたいんだ」 棗は、机や椅子に飾り気のない棚と、必要最小限の家具が揃った部屋から、遥か彼方に見えるエンブリオプラントを見つめていた。 ビルの一室に構えた事務所のバルコニーからは、工業地区を含む臨海地区を一望する事が出来る。だからこそ、今までエンブリオカンパニーから貰っていた給与を果たさんばかりの資金をかけて、部屋を借りたのだ。 海風が開け放たれた窓から入り込み、みどりの黒髪を弄ぶ。 「アリス……。俺は忘れない、お前がここに居たという事を。そして、お前の勇姿を」 来るべき時が来たら、自分は迷わずにその身を捧げよう。とうの昔に決めていた心が、一層強くなる。それまで、自分の手が届く範囲は出来るだけ多く手を差し伸べようと。 あの忌まわしき事件、『カオスインパクト』から三ヶ月以上が経った頃、政府は以前から着々と進めて来たという、政府公認の対インベーダーのコードユーザー部隊――人類平和維持機構『HPO』の結成を発表した。 エンブリオカンパニー製のコードシステムを搭載した部隊で、民間人を守るためにインベーダーと戦うのだ。インベーダーの出現が多い地域から順に部隊を配置し、いずれはこの国全域を監視下に置く予定なのだという。 個人でインベーダー退治を行うバニッシャーにとって、仕事が減ってしまうという危機なのだが、棗の心は寧ろ静かな歓喜に包まれていた。 「これで、一人でも多くの弱者が助かればいい。一人でも多くの幸せが守れれば、それで良いんだ……」 コルクボードに貼られたスクラップ記事には、インベーダーに襲われた街で民間人を救助する隊員の姿が写し出されていた。その傍らに、巨大な獣の遺体が横たわっている。 それは、世界を蹂躙する闖入者に人々が抗った証であった。 「さて、俺は俺の成すべき事をしなくてはな。バニッシャーの役目は未だ終わっていない。俺達は俺達のやり方で、活動を続けなくては」 公的な団体は、時として立場に縛られる。それ故に、動きたくても動けないという事が少なくはない。 棗のように個人であれば、それは無かった。バニッシャー独自で築き上げたネットワークと手法は確かなもので、『HPO』に引けを取る事は無い。 棗が窓を閉めようとしたその時、 「――!?」 懐の携帯電話のバイブレーターがけたたましく鳴った。ディスプレイに映し出されたのは、『CAUTION』の文字。それと同時に、立体マップが出現する。 インベーダーが出現したのだ。マップの中央が赤く点滅している。 「この近くか……!」 絹を引き裂くような悲鳴が、潮風に乗って棗の耳に届いた。現場は、事務所のビルの直ぐ裏にある広場であった。 棗は掛けてあったコートを身に纏い、机の上に置いてあったゴーグルを掛ける。真昼の日の下で闇が生まれた。 棗は闇を翻しながら、現場へと掛けて行ったのである。 件の広場からは海が見えた。景色のよさと程よい広さがあってか、休日や平日問わず人が集まっている。地面は鮮やかな色の石畳で舗装されており、空から地上を見下ろせば、一枚の絵に見えるという仕組みだ。 今日も平日の昼間なのにも関らず、大学生達がギターをかき鳴らして野外ライブを行っていた。慎ましやかだが良く通る声は道行く人々の足を止めていたのだが、不運にも、それに乱入する無粋な者が現れた。 透明感のあるバラードの音色を掻き分けながら出現したのは、その場には似つかわしくない巨大な体躯の黒犬であった。子牛ほどの大きさのそれは、飢えた獣の眼光を宿しながら、音も無く歩いてくる。 死を運ぶ凶犬――ヘルハウンドだ。 真昼の喧騒に落とされた一点の闇は、波紋のように広がっていく。 「ば、化け物だ!」 「インベーダーが来たぞっ!」 大学生や通行人は、その姿を見るなり、蜘蛛の子を散らすように逃げ出す。だが、それと同時に、ヘルハウンドも地を蹴った。 マイクスタンドを薙ぎ払い、逃げ遅れたボーカルの男子学生に覆い被さる。ナイフのような鉤爪が男子学生の肩の肉に食い込み、鮮血が滲み出た。抉り込まれるような鈍痛が、じわじわと彼を侵食する。 「――!!」 男子学生は声にならない悲鳴をあげた。絶望が彼を支配する。 だが刹那、ヒュンっと風を切る音がヘルハウンドに襲い掛かった。 鞭のようにしなる影の軌跡に、「ギャン」という声をあげてヘルハウンドは転げ回る。額は割れ、どす黒い血が石敷きの広場に斑点を描いた。 「逃げろ! こいつは俺が倒す!」 駆けつけた棗は、男子学生とヘルハウンドの間に割って入る。負傷した男子学生は、蛇腹剣を構える棗の背中を見つめながら、「あ、有り難う御座います!」と逃げていった。肩の怪我のせいで足取りが覚束無いが、命に別状は無い筈だ。 棗が成すべき事、それは、あの男子学生を含め、人々が安全な場所へ行くまでヘルハウンドを食い止める事。 そして、バニッシャーの名にかけて、目の前の標的たるヘルハウンドを消し去る事であった。 「Gurrrr……」 獲物を逃がしたヘルハウンドは怒りを露にしながら立ち上がる。凶悪なまでに赤く光る眼は、最早棗しか映していなかった。 「来い。バニッシャーの名の元に、お前を葬り去る」 太陽の光すらも食い尽くしてしまいそうな漆黒の刃を構え、棗は静かに言い放つ。宣告とも挑発とも取れるその言葉に、ヘルハウンドの殺気が膨れ上がった、その瞬間の出来事であった。 「風よ、槍となれ!」 頭上から、少女の声が高らかに響く。 刹那、両者の間に一陣の風が舞い降りた。否、そんな生易しいものではない。正に槍の如く、旋風が石畳を抉ったのである。 「……何者だ!」 思いも寄らない第三者の介入に、棗が空を見上げると、そこには魔女帽を目深に被った赤髪の少女の姿があった。 ちょこんと箒に乗ってマントをつけたその姿は、物語に出てくるような典型的な魔女の姿である。ほんのりと幼さを残した顔立ちで、くりくりとした大きな蒼眼は可愛らしさすら伺えた。 だが、少女は小生意気とすら思える程に胸を張ると、 「何者だと聞かれたら名乗るっきゃないわよね! 聞いて驚きなさい! 美少女魔女アマリリスちゃんとは私の事よ!」 「…………いや、知らないな」 高飛車な物言いの少女――アマリリスは、棗の一言にがくりと肩を落とす。ご丁寧に、箒の高度まで下げながら。 「ぬぬぅ。こ、これから有名になるのよぅ! 天才コードユーザーとしてね!」 「コードユーザー?」 不思議そうな声をあげる棗。 だが、アマリリスは気にした様子も無く、ヘルハウンド目掛けて一直線に急降下する。 「……! 突っ込む気か!?」 「そんな事しないわよぅ。でも、あのワンコロの顔面に魔法を喰らわせてやるんだから!」 飛燕の如く迫るアマリリスは、右手でついっと虚空を撫でる。すると、魔力が指の軌跡を辿り、魔法陣が生まれるではないか。 それは間違いなく、古き魔法に用いられた魔法陣である。だが、彼女の話を符合させるのならば、それは純粋なる魔法ではなく、コードシステムを利用した擬似魔法なのだろうが。 「風よ――!」 「GAAAAッ!」 アマリリスが呪文を紡ごうとした瞬間、ヘルハウンドが咆哮をあげた。耳を劈く音の塊は炎へと形を変え、急降下するアマリリス目掛けて襲い掛かる。 「え? あ!? きゃあ!」 寸前の所で炎を避けるアマリリスであったが、バランスを崩した箒は空中で何度も孤を描いた末、主たる彼女を放り投げた。重力に囚われたアマリリスは硬い石畳に叩きつけられそうになるが、咄嗟に駆けつけた棗が彼女の小さな体を受け止める。 「大丈夫か……!」 ぎゅっと目を閉ざしていたアマリリスは、棗の声に恐る恐る顔を上げる。そして、棗の顔を見た瞬間、ハッと息を呑んだ。 「……どうした?」 「こ、こうして見ると。結構、イケメン……」 「…………………………………………」 そのままガクリと気を失うアマリリスと、無言の棗。その視線は、現実逃避するかのように泳いでいた。 だが、戦いが終わったわけではない。ヘルハウンドは火の粉を吐きながら、一歩ずつ確実に棗に歩み寄る。 棗はアマリリスの体をベンチの上に丁寧に横たえさせると、再び蛇腹剣を構えた。 |