エンブリオプラントの暴走によるゲートの開放及び、カオティックワイズマンの侵食の事件の真実は表沙汰にならず、曖昧な公表でお茶を濁された。

 とは言え、システムを開発していた志藤アキツが居ない今、エンブリオ自身にも真実を知る術はない。同研究チームに属していた研究員も、志藤アキツのブラックボックスを開ける事は出来なかったのだ。
 被害面積が少ないにもかかわらず、二度と戻らぬ行方不明者が百二十余人という大規模な傷痕を残したこの事件は、後に『カオスインパクト』という名前がつき、ゲートクロス事件に勝るとも劣らぬトラウマを人々の胸に残す。


 事件後、棗とエニグマを社長室に集めたエンブリオは開口一番にこう言った。

「結局、私は拭い去ることが出来ない傷を残しただけだった。責任を取って社長の座を降りようと思う」

「ええ、確かに今回の一件は貴方に責任が御座います。Aliceプログラムが不完全にあるにも拘らず、システムを起動させてしまったのですからね」

 棗のフォローよりも早く、エニグマが間髪を入れず口を挟んだ。わざとらしく肩を竦め、「やれやれ」という表情を作ってみせる。

「ですが、今貴方が辞めた所で、どうなるというのです? 貴方の後を継げる者はいらっしゃるのでしょうか? それに、貴方にはコードシステムを発展させると言う義務があるでしょう?」

 同意を求めるかのように視線を送られると、棗は目を二、三回瞬かせた後に頷いた。

「嗚呼。コードシステムを一般化させ、戦う術を持つ者を一人でも多く増やして欲しい。俺は、自分の手の届く範囲で手一杯だからな」

 棗は眉を歪め、苦い笑みを零した。

 アリスが言っていたように、人一人が持っている力というのはとても小さい。だが、小さい力が沢山集まれば、大きな力となれるのではないだろうか。
 深々と頭を下げるエンブリオを見つめながら、棗はそんな事を考えていた。その傍らで、エニグマが冷たい表情で遠くを眺めているとも知らずに。
 


 エンブリオカンパニーが落ち着き、事件に関った三人が集まるまでは二週間ほどの時間を有した。
 その十日前の出来事である。誰にも必要とされなくなった廃工場で、ひっそりと一つの命が葬り去られたのは。
 立ち入り禁止と書かれた古い看板が掲げられた扉の向こうで、存在する筈の無い気配が蠢いていた。
 置き去りにされた機器は埃を被っているにもかかわらず、机と椅子だけは使用出来る程度に清掃されている。
 その上には幾つもの機械が置かれ、色取り取りのコードが束になって伸びていた。その傍らで、隠れるようにひっそりと何者かが蹲っている。

「やはり反応が消えている。間違いない、アリスはゲートを閉ざす為に全てを使い切ったか……」

 無精髭を生やした白衣の男が計器を弄っていた。
 年齢を感じさせるかのように深い皺が刻み込まれた顔に浮かんでいるのは落胆と無念である。僅かに白髪の混ざった灰色の頭をがしがしと掻き毟ると、計器を乱暴に床に放り投げた。

「まさか、エンブリオカンパニーの追跡があそこまでしつこいとはな。お陰でアリスと合流し損ねた。……もう少しアリスを手懐け、あのシステムを私のものにしようとしたのに。これでは、有栖を情報体の糧にした意味が無くなる。それどころか、システムまで駄目になってしまうとはッ」

 とんだ仕打ちだ。と男は吐き捨てる。
放り投げた計器を拾おうと床に視線を落とすも、そこには何も無かった。

「おやおや、これをお探しでしょうか?」

「な……、お前は!」

 突然の闖入者に、男は思わず声を裏返した。計器を携えて佇むのは一人の男――エニグマである。相変らずの本心が読めぬ笑みを湛えながら、エラー画面を映し出す計器を指先で弄んでいた。

「こんにちは、志藤アキツ殿。私はエニグマという者に御座います。所で、このような場所でどうなさったのでしょう?」

 白々しいほどの疑問符を向けるエニグマだが、志藤アキツと呼ばれた男を慄かせるのは充分であった。
 じりっと後ろに下がるも、机が彼の行く手を阻む。

「エンブリオカンパニーの者か……ッ! 私をどうする気だ!」

「いえ、私が所属しているのは別の機関に御座います。それは兎も角として、貴方には幾つか確認したい事が御座いまして。――Aliceシステムに対する幾つもの小細工は、貴方の差し金でしょうか?」

 その瞬間、志藤の目の色が変わった。咄嗟に後ろ手で机を開いたかと思うと、片手に携えた銃をエニグマに突き付ける。

「その通りだ。私はあのシステムを我が物にしたかった。しかし、ただのシステムでは誰にでも扱う事が出来る。ただのパスワードでは社長に解かれてしまう。自分だけにしか使えないようにするには、特殊なロックをかけるしかないと。……まさか、アリスの拒絶の意思がゲートを暴走させるとは思わなかったがな」

「その為に、情報体を番人としたわけに御座いますね。意思を持つ者の心を開かぬ限りはシステムを正常に使うことは叶わない、と」

 銃口が己を向いているにも拘らず、エニグマの慇懃無礼な態度は変わらなかった。真紅の瞳は虚勢を張っている志藤の姿をハッキリと映し出す。

「わざわざ手の込んだ事をなさります。そこまでして、Aliceシステムを手に入れたかったのは、やはりコードゼロが目的に御座いますか?」

「無論! 見ただろう、あの混沌の力を! そして、その混沌をも抑えたアリスの力を! 混沌を全て変換する事が出来れば、神の力を得ることも不可能ではないッ!」

 志藤の見開かれた目は、正気ではなかった。
 ギラギラと光る双眸を前に、エニグマは「やれやれ」と肩を竦める。それが癇に障ったのか、志藤はトリガーに掛けた指に力を込めた。

「さあ、お喋りはこれで終わりだ。真実を冥土に持っていくんだな。――手を上げろ」

「はいはい、これで宜しいです――か?」

 エニグマが手を上げた瞬間の出来事だった。ボッという音と共に、志藤の足元から炎の柱が出現する。

「ぐ、ぐあぁぁぁッ!」

 悲鳴をあげて転げまわるも、炎は志藤を逃がそうとはしなかった。火柱の質量のまま彼にまとわりつくと、衣服を表皮を、肉を瞬く間に喰らい尽くしていく。

「人が神の力を得るなど、おこがましい。この穢れた世界の全てが神によって裁かれるまで、大人しくしていれば良いものを。貴方は神に仇成す者……、浄化の炎で焼き尽くされなさい?」

 エニグマの口調は柔らかくも、冷たかった。放つ炎とは裏腹の底冷えするような視線を、炎に巻かれる志藤へと向けていた。
 やがて志藤の姿は変わり果て、辛うじて人の形を保っている炭と化した所で、炎はようやく虚空へと消える。

「それでは、良い終末を。――嗚呼、もう聞こえておりませんか」

 エニグマはくっと唇を歪めて哂うと、深々と頭を下げる。

「……芽は摘み取らなくてはなりません。我らが神様の、そして我ら機関の望みである、世界の浄化の障害となりえるものはね」

 聖印を切ると、マントを翻して現場を後にする。エニグマの足音が響く中、志藤アキツだった物はサラサラとその形を崩し、最後には一握りの砂となった。
 廃工場に再び静寂が訪れる。或る者にとっては、永遠の静寂が。






<<BACK TOP NEXT>>