棗達の目の前で、混沌は一層激しく渦巻いていた。黒霧から伸ばされる触手に絡め取られないのは、混沌の中心にいるからだろうか。それでも、開け放たれたゲートから無限に噴出す混沌を鎮めない限り、世界諸共混沌の海へと沈むこととなってしまう。
 コードゼロはパンドラの箱だった。エンブリオは奥にある希望にばかり目を向けて、箱を満たしているものの危険性を充分に把握していなかったのだ。

(ううん、分っていた筈。だから、これ程大規模な変換装置を作ったんだもの)

 アリスが上を見上げると、首が痛くなりそうなくらいに高い位置にまで複雑な機械やパネルが張り巡らされていた。黒霧の間から辛うじて見える尖塔の中央からは、留まることを知らぬ混沌が流れ出している。混沌界に開いたゲートの位置はそこなのだろう。

(私が私の役割をしていたら、こんな事にはならなかったのかな……)

 だが、コードゼロを用いた人類進化計画が実行されたとしたら、進化に追いつけぬ人間は切り捨てられる事となってしまう。それに、計画の実験体として、多くのネオヒューマンが犠牲になるだろう。
 そんな事は、

(棗さんが、悲しむもの)

 その瞬間、アリスの中で何かが弾けた。
 彼女の想いを淀ませていたものが、すうっと消えて行くのが分る。その先に、彼女の求めている答えがあった。

「そうか、私は……」

 混沌の勢いに翻弄されていたアリスが、一歩踏み出す。それを見た棗は、落下の衝撃で痛めた体を押さえつつも尚、アリスを守ろうと体を起こした。

「下がれ、アリス……!」

「いいえ、下がりません。私、守られてばっかりでは駄目なんです。――ずっと守らせてしまって、ごめんなさい」

「そんな事……」

無い。と強く断言しようとしたが、棗は気付いてしまったのだ。振り向いたアリスの双眸が、強い決意の気持ちを宿している事に。

「私には私のすべき事があったんです。そう、ようやく分ったんです。私の――Aliceシステムの本来の役目が」

「本来の役目、ですって……?」

 壁に寄りかかりながらも立ち上がるエニグマに、アリスは深く頷いた。混沌が巻き起こす黒霧の勢いに弾き飛ばされそうになるも、床をぐっと踏み締め、少しずつ前進していく。

「棗さん、エニグマさん。私、秘策を思いついたんです。成功する可能性は一パーセント程度ですが、私に力を貸して頂けませんか?」

「どういう……事だ。アリス、お前、まさか……!」

 棗の察するかのような声に、アリスは頷き返した。

「お前は無茶をしなくていい! 普通の娘として暮らして生きたいのなら――無理をするな!」

 無理。それは、アリスがAliceシステムの核である事を受け入れる事だろう。今までの自分を否定し、全てが偽者だったという事を認める事だろう。

 確かに、アリスにとって耐え難い苦痛だった。心がバラバラになってしまいそうなほどに辛かった。
 だが、今はそれよりも辛い事がある。今はそれよりも大事な事がある。

「ねえ、棗さん。様々な出来事に対して、ヒト一人の力はあまりにも小さ過ぎますよね。想いが幾ら強くても、それを成し遂げられるほどの器が無くては仕方がない。――だから、ヒトは時に残酷な選択を迫られるんです」

 アリスの口からはそんな言葉がスラスラと出て来た。まるで自分の心を誰かが代弁しているかのような感覚に囚われながら、アリスは続ける。

「大きなものを救う為には、小さな事を犠牲にした方が良いんです。エンブリオさんの選択も、或る意味間違いでは無いのだと思います。私は……あの人の思想はそんなに好きではないけれど。そう、全部救う程の器が無いのは仕方がないことなんですよ。だからこそ、選択を誤らないで」

 嗚呼、矛盾していると思いながらも、アリスは己の胸奥から溢れる言葉を紡ぐことを辞めようとはしない。不思議と、清々しい気分だった。荒れ狂う混沌すら飛び越えて、その先に行けそうな気すらしていた。自分には、叶わないことだけれど。

「私は何にもないから。偽りの命に偽りの記憶しかないから。だから、この世界がどうなっても構わないんです。――けれど、棗さんの事が大好きだから。棗さんが大好きなこの世界を助けたいと思うんです」

 振り向いたアリスは笑顔だった。黒霧に塗りつぶされた背景には不似合いなほど、その微笑みは眩しく、慈愛に満ち溢れている。
「この世界を救うことによって、私は初めて、本当の意味で『生まれて来て良かった』って思えるんです。棗さんの役に立っ
てこそ、私にとっての私の存在意味が生まれるんです。――だから棗さん、力を貸してください。私をゲート出現地点まで連れて行ってください」

「アリス……」

 アリスの双眸は覚悟に満ちていた。十五年前のあの日、全てを失ったあの日、戦場に身を投じる覚悟を決めた時の目と、同じだと思った。棗の口から彼女の名前以外を紡ぐ事は出来ず、頷きのみを返す。

「……エニグマ。もう一度、出来るか?」

「元よりそのつもりに御座います。アリスが折角御覚悟を決められたのですもの」

 マントの埃を払いながら、エニグマもまたにっこりと微笑んだ。

「それに棗、貴方もね。貴方はあまりにも優し過ぎる。自己犠牲が強い分、他人を犠牲にする事を心底拒絶する。ですが、その信念が時として正しい行動に繋がるとは限らない。――分りますね?」

 責めるでもなく、優しく包み込むような言葉に、棗は黙り込んだ。

「…………。行くぞ、アリス」

「ええ、お願いしま――きゃ!?」

 不意にアリスの体が棗に持ち上げられる。空中で小さな孤を描いて着地する前に、ずっしりとした安定感のある背中に収まった。そこには、二角の黒馬の姿をした棗が居た。

「棗さん、その姿……!」

「呪符を投げるのでなければ、この方が早い」

 エニグマに視線を投げかければ、こくんと了解の意が返される。それを確認するか否かのうちに、棗は床を蹴った。
 黒馬は壁を疾走する。それを『敵』として認識した混沌が触手を伸ばしてくるも、エニグマの聖焔によって焼き尽くされた。煙幕のように舞い上がる煙を掻き分けて、棗は一気に壁を駆け上がった。
 頬を掠めていく風を感じながら、アリスは棗の首筋をそっと撫でる。精一杯の感謝の気持ちを込めて。

「有り難う、棗さん。そして、ごめんなさい、ずるい子で。だけど私は、貴方と会えて良かった。この幸せの恩返し、少しでも出来ていたら良いな」

 刹那、黒い影は空高く舞った。混沌の渦を追い越し、上層の壁を蹴りつける。眼下にはまるで台風のように暴れまわる黒霧と、その中央に浮かぶエンブリオがいた。隣に聳える尖塔を捉えた瞬間、アリスは棗の体から手を離す。

「棗さん、エンブリオさんをお願いします!」

 アリスの華奢な体躯は、美しい孤を描いて混沌に向けて落ちていった。無数の触手がアリスの体を包み込み、暗黒の淀みの中へと引き込んでいく。彼女の体が完全に埋没する直前まで、彼女は棗を見つめていた。
 そこに浮かんでいたのは、まるで青空のような微笑みだった。言葉が出ないほどに澄み渡り、温かい太陽を優しく包んでいる。それなのに、何処か物悲しげな青空である。
 彼女の口が緩やかに動く。一つ一つの音を大事に紡ぐかのように、「ありがとう」と。

「――っ。アリスーッ!」

 棗が叫んだその瞬間、光が弾けた。目が眩むほどの白い光が、超新星の大爆発の如く目の前で広がる。混沌も、闇も、焔も。全てが白で埋め尽くされた。






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