シティホライズンの空は暗雲に覆われていた。それはまるで生き物の手のように広がり、シティホライズンを押し潰さんとしている。
 そして、淀んだ空気が繁華街の至る所に広がっていた。まるで、これからの惨事を予見するかのように。

「ねえ、何かあっちの空、やばい色してない?」

 繁華街の駅前で買い物をしていた女子高校生が、南西の工業地区の空を指差した。仲間の女子高校生もそれにつられる。

「うっそ、何あれ! ヤバイどころじゃないよ。なんか来るんじゃない!?」

「ホントだ。あっちでゲートが繋がってるのかも。モンスターが来る前にさっさと帰ろうよ〜」

 女子高校生達の涙が混ざる声に、周辺にいた通行人も立ち止まって空を見上げる。インベーダーが来訪するのであれば、それに備えて店のシャッターを閉めるなり避難場所に退避しなくてはいけない。だが、

「な……、あれは……!」

 店から顔を出した髭面の中年男性が顔を強張らせる。店のロゴが入ったエプロンを握り締める腕が震えていた。

「おい、よく見てみろ。あれは雲とかじゃねぇよ……!」

「え……?」

 一層濃い暗雲が工業地区全体を覆っている。そう思っていた女子高校生達であったが、それが間違いである事に気付いた。暗黒の塊はただの蟠りとなっているのではなく、動いていたのだ。雲、否、霧だろうか。腕のような触手を伸ばしたところから霧が広がっていき、周囲を更に黒に染めていた。
 暗雲は確実にこちらに向かっている。街に到達するのも時間の問題だった。
 刹那、女子高校生の携帯電話のバイブレーターが通学鞄の中で暴れる。ビクッと身を竦ませながらも、恐る恐る取り出した。

「あ、インベーダー速報……!」

 画面を開けば、『CAUTION』という赤い文字が浮かび上がり警戒地区と避難指示を標した文字が羅列される。案の定、彼女らがいる地域も入っていた。

「避難場所はいつもの場所ってか。だが、あんなもんがこっちに来たら、この街なんてひとたまりもねぇよ」

 次々とシャッターを閉める他の店を眺めながら、男は苦渋の表情を浮かべる。
 避難場所は区民ホールの地下となっているのだが、霧状の『何か』がそれで凌げるとは思えなかった。背中に蟲が這うようなざわざわとした感触が昇っていく。大地を踏み締めている筈の足の裏に浮遊感を覚え、体を引っくり返されるような眩暈に襲われた。

 男にとって、この感覚に囚われたのは初めてではなかった。
 十五年前のゲートクロス事件。その時初めて体感したのである。

「クソッ、デジャ・ビュか!」

 男は思わず悪態をつく。空から大地が降って来た時、生まれて初めて本気で死を覚悟した。いや、死という生易しいものではなく、感じたのは世界の終末だ。
 物語で何度も見たことがある出来事が実際に起きたという、悪夢を認めてしまった時の絶望感といったら無かった。物語では好きなだけ体感できるが、現実世界では一回きり、そして、そこで全てが終わってしまうのだから。
 幸い、終末は免れたものの、今度は昼夜問わず怪物襲来の脅威に曝されなくてはいけないという災難が待っていた。それでも、世界全てを巻き込んだ終末の訪れに比べれば、幾らでも逃げようがあったのだ。エンブリオカンパニーのお陰で、コードユーザーという心強い味方も現れた事だ。生きてさえいれば、世界が動いてさえいれば、真の絶望というものはありえない。

 だが、その終末の悪夢が再来するのではないかという予感が、男を襲ったのである。暗雲の正体は分らないが、暗黒の触手は確実にこちらに向かって来ていた。その危険性は、警鐘を鳴らす己の胸が知らせている。
 人間は、個々では非常に弱い生き物だ。武器を持たなければ無力そのものである。その弱者としての本能が、男に告げていたのである。逃げても無駄だと。

「早く逃げようよ! なにしてんの!?」

 傍らでは女子高校生が涙目で仲間の肩を揺すっている。揺すられている本人は、携帯電話の映像に釘付けになっていた。

「無理……。きっと無理だよ、これ……」

 ポツリと呟いたかと思うと、蒼白の顔を上げる。掲げた画面には、ライブカメラの映像が映し出されていた。アクセスが集中しているのかコマ送りのような映像だが、それでも自分達が置かれている危機的状況を悟るには充分過ぎるほどであった。
 工業地区の中央に聳え立つ巨大なプラントがそこに映っている。エンブリオカンパニーのエンブリオプラントだ。二十四時間体制で厳重な警備を敷かれている所為か、間近で見ると威圧感すら漂う施設だが、今となってはその面影が無い。プラント全土が、漆黒の霧によって覆われていた。
 蠢く触手は、それ一つ一つが違う生き物であるかのように這いずり回り、周囲を埋め尽くしていく。最早、見る影もないエンブリオプラントを中心に、黒霧は他の施設にも及んでいた。

「何……これ。これって本当にインベーダーなの!?」

「ちょっと待って。何かいるよ!」

 ふと、画面の片隅にちらつくものがあった。映像を拡大すると、それが人である事に気付く。何人かの人間が、枝のように伸びる触手から逃れんと蜘蛛の子を散らすように走っていた。

「こっちにも避難用のシェルターはある筈……だよね?」

「見て。あの施設が地下に通じているんじゃな――っ!」

 人々が飛び出して来たと思われる小さな建物を指差した女子高校生の言葉は、途中で声にならない悲鳴に変わった。開け放たれた施設の扉から、あの黒霧がダムから溢れ出すが如き勢いで噴出したのである。
 黒霧は逃げ遅れた人間を捉える。手足を無茶苦茶に暴れさせるのを簡単に絡めとり、実体の無い体の中へと取り込んだ。霧の中から逃れようともがく手は徐々に霧の中へと埋没して行く。
 だが信じられない事に、完全に埋まってしまう前に、その手自身が黒霧へと変貌してしまったのだ。まるで最初からそうであったかのように、一瞬で形を崩すと霧の中へと溶ける。
 黒霧は無感情に、だが、確実に逃げる人々を包み込んで行き、己の中へと取り込んでいく。音声は無くとも、壮絶で凄惨な映像からは入り乱れる阿鼻叫喚が感じられた。女子高校生の一人は吐き気を催したのか、口を抑えてよろよろと店の壁に寄りかかる。

「何よ、これぇ……。シェルターも無意味だって言うのぉ……」

 しゃっくりを上げて泣き出す者もいた。その場に居る誰もが、避難場所へ走る事を諦めていた。
 絶望は感染する。空から降って来る大地を見たときと同じく、それは確実に広がっていた。
 彼らが祈るは神か、それとも偶然が生み出した幸運か。だが、彼らは知らない。混沌の世界の来訪者たる黒霧の中で絶望と戦う者達が居る事を。






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