霧は吹き抜けの施設内に充満する。それでも、閉鎖されているシャッターや凝固な窓から外に出る事無く、尖塔型の装置と施設内を右往左往しているだけであった。
 だが、

「エンブリオッ!」

 棗は見ていた。濃密な黒霧の向こうで、『何か』がエンブリオの体の中に入り込んでいったのを。伸ばした腕は成す術もなく虚空を掴み、それと同時に、霧が弾けた。

 霧はザアッとノイズを立て、まるで蜘蛛の巣のように広がる。腕のように、否、触手のように霧の塊を放射状に伸ばし、一つ一つが意思を持つかのようにシャッターを押し退け、窓ガラスを打ち破った。

「どうしよう……! エンブリオさんが混沌に飲み込まれてしまったッ」

「霧のこの動き、混沌はエンブリオプラントの外に出ようというのですか!?」

 まるで嵐の真ん中にいるような錯覚すら感じる程のノイズが、容赦なく頭を襲う。己を確り保っていないと、自我を根刮ぎ持っていかれてしまうだろう。
 そのノイズの正体は、混沌界の一端であるカオティックワイズマンが持つ知識と魔力だった。魔力耐性をつける修行をしていない常人が巻き込まれて無事な筈がない。
 アリスは濁流の如く荒れ狂う霧に流されぬよう、必死に壁にしがみ付きながら叫んだ。

「この流れに意識を持っていかれたが最後、情報を分解されて混沌の一部になってしまいます!」

「情報……。肉体や精神、全てにおける情報が分解されるという事か……?」

 棗は固唾を飲み込む。それ即ち、本人の消滅という事だ。死などという生易しいものではない。分解された情報が混沌の中に溶け、断片化したまま永遠に世界と世界の狭間に彷徨うというのだ。
 俯くように頷くアリスを見て、棗は弾かれたように上層を見上げた。最早、霧ではなく黒い嵐と化した混沌の中央には――エンブリオの体があった。
 黒く塗りつぶされていく視界のほんの僅かな隙間から確認出来る彼女の姿は、先程に比べてずっと小さく見えた。眠ったように閉ざされた瞳、力なく垂れる腕。棗は呪符を懐から抜き放ち、混沌と対峙した。

「エニグマ、エンブリオを救出するぞ! 幾ら混沌とは言え、コードユーザーを必要としていたのならばコードシステムの法則に則っている筈だ。ユーザーとの繋がりが絶たれれば、コードシステムは機能しない!」

「……確かに、そのようですね。ですが、どうなさるおつもりです。どうやって、エンブリオと混沌を切り離すのですか……!」

「封印の魔法で供給される魔力を一時的に遮断する」

 棗の言葉に、エニグマが瞬いた。アリスもハッとして混沌に抱かれるエンブリオを見上げる。

「そ、そうか……! 混沌の魔力の流れは、開いたゲートからエンブリオさんへ、エンブリオさんから外に向かってるんですね。つまり、エンブリオさんに対する入り口を塞いでしまえば……」

「僅かな間ですが、混沌との繋がりが失われるという事ですか」

「その間にゲートを閉ざしたい。とは言え、エンブリオの意識が戻れば……だが」

 勝算は低かった。エンブリオは今、混沌に飲み込まれている状態だ。意識が直ぐに戻る可能性は低い上に、下手をすれば彼女の自我が失われてしまっている可能性もある。

 しかし、ゲートの操作は彼女以外には出来ない。だから、彼女に賭ける他無いのだ。
 棗の意識は自然とアリスに向く。アリスがどれ程の可能性を秘めているのかは分らない。もしかしたら、この状況を打開する術を持っているかもしれなかった。

 だが、棗にはそれを要求する事は出来なかった。

 アリスは己が情報体であった事に強い拒絶を見せていた。それなのに、情報体としての活躍を期待するというのは酷な事だろう。
 彼女が己を人間だと思っている限りは、棗はそれを否定したくは無かった。
 それが故に、棗は不安そうに事の成り行きを眺めているアリスの肩をそっと叩く。肩に手を乗せられて驚いたアリスが、目をパチクリとさせながら棗を見上げた。

「アリス、お前は待っていろ。……この街は、この世界は必ず守ってみせる」

「棗さん……」

 アリスを庇うように踏み出した棗に、エニグマも並んだ。おどけたように肩を竦めて見せるも、赤眼に宿った意思は真剣そのものである。

「棗、肩をお貸しなさい。幾ら貴方の体が頑丈だとは言え、そんな状態では碌に動けないでしょうに」

「エニグマ……?」

 既に血は止まっているものの、エンブリオに撃たれた肩の傷は深い。魔獣族の生命力を持ってしても、焼けた肉が簡単に再生する筈が無かった。
 エニグマは、大事な物を守るために負った痛々しい傷痕に、そっと手を翳す。何処の国のものか、いつの時代のものかも分らぬ祈りの言葉を口にすると、その手に淡い光が生まれた。
 温かさを湛えた慈悲の光は、棗の傷口を優しく癒す。焦げた肉は赤みを取り戻し、皮膚が新しく再生し、あっという間に元の姿へと戻った。

 その力は正に魔法。否、奇跡と言えよう。
 数々のコートシステムを作り上げているエンブリオカンパニーですら、治癒の魔法を開発する手口は掴めていないのだから。

「す、すまない……」

 奇跡を目の当たりにした棗は、信じられないものを見るような眼差しで破れたコートから己の肩に触れる。エニグマはそんな様子を相変らずの笑みを湛えて見つめていた。

「驚かれましたか、棗。でも、今はのんびりと驚いても居られません」

 そう、事態は刻一刻と動いていた。
 棗はエニグマと共に、荒れ狂う混沌の霧――カオティックワイズマンへと向き直る。エンブリオの姿は、再び混沌の中に埋没しようとしていた。

「エンブリオプラントから市街地までは少し距離があります。と言っても、三キロ程度ですがね。どのような手段を使っても、混沌の侵食を食い止めるのです!」

「勿論の事。行くぞ、エニグマ!」

 棗が跳び、エニグマが焔を放つ。その瞬間、まるでこちらの意図を読み取ったかのように、エンブリオを抱えていた混沌が蠢いた。中心の混沌は球を描くように踊っていたが、刹那、槍の如き触手が二人目掛けて放たれる。

「くっ!」

 棗が身を翻せば触手が肩を掠める。だが、棗は怯む気配を見せなかった。壁に着地する瞬間、それを狙うかのように二本目の触手が棗を襲う。胸を貫き下層に叩きつけんと切っ先が唸るも、間髪を入れず、眩い聖焔が先端を焼き払う。

「棗、お行きなさい!」

「助かる……!」

 バネのような跳躍で尖塔を駆け上がる棗。その頂点から跳び上がれば、混沌の中央に手が届きそうになる。だが、今は手を伸ばすのではない。携えた封印の呪符を投げつけるのだ。

「発動せよ、封印の呪符!」

「聖焔よ、彼の者を戒めよ!」

 エンブリオを覆う霧に魔法陣が刻まれる。咄嗟に放った先程とは違い、事前に充分な魔力を練った神術の魔法陣は、霧を晴れさせんとするほどに力強く輝く。
 そこに重なる棗の呪符。至近距離から投げつけたそれに、エニグマの魔法陣は一層輝きを増した。
 目も眩むほどの聖なる光は枝を伸ばし、黒い霧を丁寧に縫いつけていく。それがエンブリオを覆っていた霧を突き刺すのを、棗は見逃さなかった。

「エンブリオッ!!」

 エンブリオの青白い顔が、光に照らされて浮かび上がる。棗は凍りついたかのように動きを止めた霧の間から手を伸ばし、エンブリオの腕を掴もうとした。
 だが刹那、パァンという音と共に棗の体が弾かれる。光は混沌に飲み込まれ、エンブリオの体は再び霧の中に埋没した。

「っぐ……!」

「棗……くぁ!」

 エニグマは宙を舞う棗を受け止めようと走るものの、伸びて来た混沌の触手に弾かれた。軽い体は床を数メートル走り、壁に打ちつけられる事によって停止する。棗もまた、辛うじて受身を取ることに精一杯で、腕から床に叩きつけられた。

「棗さん、エニグマさん……!」

 アリスは悲鳴染みた声で二人に駆け寄る。悔しさと苦痛に表情を歪めた二人は、渦巻く混沌を見上げていた。
 
 嗚呼、両者とも大抵の困難を打ち砕く力がある者だというのに、混沌の前では何とも無力なのだろう。ゲートから顔を出したほんの僅かな世界の一端ですら歯が立たないのだ。
 その非情な現実を突きつけられ、アリスは愕然としていた。それと同時に、先程から自分の心で疼いていた疑問が顔を出す。
 果たして、このままで良いのだろうか。自分は守られているだけで良いのだろうか、と。





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