混沌界。 それは、世界と世界の狭間に存在する世界であった。様々な世界の情報が絶え間なく流れており、それに付随するように魔力もまた混沌の海に溶け込んでいるのだという。その中には無限の可能性と尽きぬ膨大な力が眠っていると同時に、危険な場所でもあった。 例えるならば、幾つかの伏せたコップを盥の中に入れ、更に盥の中に水を注ぐとする。そのコップの中が世界――壁に守られた複数の箱庭である。そして、その周囲を満たしているのが混沌界――狭間に横たわる海だ。 そこで、コップを傾けてしまったらどうなるだろう。壁に守られていた世界が、ほんの少し混沌界に開いたらどうなるだろう。 そう、コップの隙間から水が流れ込み、あっという間にコップの中は水で満たされてしまう筈である。 それと同じ現象が、今、エンブリオプラントにて起こっていた。 「Aliceシステムは流れ込む混沌を変換するためのもの――言わば、コップの中の水を凝縮させ、エネルギーに変換させるものだったのに……! それが不完全だから、ゲートは開かなかった筈なのに……! なのに、何故開いたッ!」 計器は異常な数値を示し、施設内の魔力濃度が急上昇しているのを知らせる。 エンブリオは、決してこのような事態を予測していなかったわけではない。万が一に備えて、ゲートを強制的に遮断するプログラムも作らせていたのである。だがそれは、何故かエンブリオの持つパスワードでは起動しなかった。モニタは無情にも『ERROR』の文字を点滅させる。 「志藤……! システムに細工が出来るのはあいつしかいない。一体、何のために……ッ」 膨大な魔力と情報――それは混沌そのものであった。無限に湧き出すそれは、世界を喰らい尽くす魔神そのものだ。恐らく、急速に世界を侵食し、この世界全てを混沌で満たしてしまうことだろう。 そんな事態は、避けなくてはいけない。 「これだけの力を制御する術があれば、人類全てに力を与える事も可能だっただろうな。皮肉なものだ」 だが、Aliceシステムが完全だったとしても、少しずつ注ぎ込んでくる混沌をゆっくりと変換する事しか出来ないだろう。勢いよく溢れ出す混沌を変換するほどの技術はないという報告を受けている。 エンブリオは自嘲気味に笑った。 漆黒の霧で隠れてしまったが、あの三人は無事なのだろうか。否、あの三人だけでなく、このシティホライズンを、世界を守らなくてはいけない。 エンブリオはそう決意すると、何度目かのパスワード再入力を行った。すると、 「これだ……!」 ゲートの固定が解除される。閉じることが可能になったのだ。あとは、ゲート操作のプログラムのロックさえ解除すれば、ゲートを閉ざせる筈である。 「しかし、パスは『CREATION』か……。あの男、何を『創造』しようとしていた……?」 次のパスワードを探りながら、エンブリオは思考を巡らせる。事故死した有栖を蘇らせようとしたのだろうか。否、それならば『REVIVE』とする筈である。 そう言えば、有栖の事件も不審な点が幾つかあった。何故、志藤は危険な実験に愛娘を立ち合わせたのだろうか。その真相は誰も知らない。そもそも、事故現場を見ているのは志藤本人しか居ないのだ。 Aliceシステムの情報体に己の愛娘を重ねるほどに、その事件は本人にとって重大な損失をもたらしたのだと思っていた。だが、その認識がそもそもの間違いであったとしたら。 「システムには情報体発生の兆しは無かった……。それに、あの男がシステムに名前をつけたのは、志藤有栖が事故に巻き込まれた後、そして、アリスが生まれる前だった筈だ」 何やら一気にキナ臭さが溢れ出す。全てをリセットして事象だけを並べて検証してみると、不審な点が幾つも浮上して来た。そして、新たな可能性も。 「そう言えば、聞いた事がある……。意思がある者の情報が遺されている場所には、自我を持つ情報体が発生し易いと」 エンブリオは気付いてしまった。 志藤アキツはAliceシステムの全てを掌握していた。そして、Aliceシステムはアリスを核としていた。つまり、アリスの意思を思いのままに操る事が出来れば、Aliceシステム自体も手中に収められるのだ。 「Aliceシステムを我が物にする為に、Aliceシステムを己の傀儡とする為に……わざと有栖を人柱にしたと言うのか。自我を持つ情報体を発生させるために!」 エンブリオがそう叫んだ瞬間、周囲の霧が一層濃くなった。己の頭の中に全く関係の無い情報が、そして、己が全く知らない情報が入り込んでくる。脳内に虫が這いずり回るような不快感が彼女を襲った。 「う……ぐぅ……。これが、混沌界をたゆたう情報の波だと言うのかッ」 酷い眩暈を起こしながらも、エンブリオは顔を上げた。刹那、彼女の顔が驚きに歪められる。 何処までも深い闇色の霧から、顔が覗いていた。牡牛のような角を持つそれは、紛れも無い髑髏である。『有』が入り乱れる中にぽっかりと浮かんだ『死』と『無』の象徴は、実にアンバランスでいて、不気味であった。 『それ』は眼球の無い眼窩でエンブリオを見つめている。だが、エンブリオは絶え間なく頭に侵入して来る情報から意識をそらすことで精一杯だった。 視界がノイズにかき乱される中、髑髏は悠然と自分に向かってくる。周囲の霧が己の身体に入り込むような錯覚に陥った瞬間、エンブリオは意識を手放した。 |