エンブリオは棗と出会ったあの日を思い出した。あの時は、少女の小さな命を守りたい一心で少女を庇おうと思ったのである。
 その時の命と、自分が捨て駒のように消費して来た命、人類進化計画で犠牲になるであろう命、どう違うというのだろうか。

「……っ! 分っていた……。分っていた筈なんだ……」

 エンブリオはがくりと項垂れる。

「それでも、ヒューマンが再び世界の覇権を握るためには、何かを犠牲にするしか……!」

 バルコニーの手すりに掴まり、ずるずるとしゃがみ込むエンブリオを見つめながら、棗もひっそりと目を伏せる。
 彼には分っていた。何かを成す為には、何かを犠牲にしなくてはいけないということを。
 だが、それがために弱者が犠牲になる事は避けたかったのだ。
 犠牲になるのは、自分ひとりで構わない。それで誰かが幸せになるのなら、それで構わない。自分は幸福だ、と。

「エンブリオ……。すまない、俺もつい先程思い出した。お前があの時の少女だったと言う事を。戦う術も持たぬのにも拘らず、か弱い命を必死に助けようとした心の強い少女だったという事を」

「……心が強いわけではない。私はただ、一つの事に集中すると必死になってしまうだけだ。周りが、見えないほどにな……」

 エンブリオは「嗚呼」と心の中で呟いた。


 文献で目にした事があったが、一部の魔獣族の成長は早熟なのだという。ある程度の歳をとるまで最盛期の姿を保つ種族もいるらしいので、二角獣である棗の姿が変わらない事に納得出来た。

 だが、どうして彼は人間よりも温かいのだろうか。ヒューマンである自分よりよほど人間らしいと、エンブリオは自嘲めいた笑みを漏らす。
 コードゼロ計画を一刻も早く進めなくてはいけないと焦っていた気持ちが、自然と和らいでいくのを感じた。

「……そう、私は心を急き過ぎていたのかもしれない。コードシステムの普及は未完成だというのに、コードゼロの事ばかりを考えて……」

「お前の気持ちは分らないでもない。コードシステムがあるとは言え、人々が依然としてインベーダーの脅威に晒されているのには変わりが無いからな。だが、上だけを見るのではなく、足元で呻き苦しんでいる者達とも向き合って欲しい。……本当に助けを求めているのは、彼らなのだから」

 棗の諭すように静かな言葉には、最早敵意は含まれていなかった。エンブリオを見上げる目は穏やかさすら漂うもので、エンブリオは崩れ去ったもの全てを脱ぎ捨ててその中に飛び込みたくなる。

「だが、今まで犠牲にした者達を無駄には出来ない。それに、父が遺した研究を破棄する覚悟は、今は未だ、無い。けれど、私は、私のやり方で人類を導いてみせる。…………少し、時間が掛かるかもしれないがな」

 ふっと口元を笑みに歪めれば、片眉を顰めて左右非対称な苦笑を浮かべる。
 自分が積み上げたものが例え崩れても、それから目を背けてはいけない。違う形でも良いから、積み上げていかなくてはならないのだ。

 エンブリオは胸に固い決意を秘め、立ち上がった。棗とエニグマ、そしてアリスに向き直り口を開こうとしたその時である。両者の間で異変が起こったのは。






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