アリスは志藤アキツの娘ではなく、彼女の中にあったのは偽りの記憶だった。エンブリオ曰く、アリスは『偽物』だった。
 自分が自分であるために縋っていたものが失われ、アリスの心は絶望に満ちていた。
 だが、それでも。
 生きていたいと思った。
 誰かが自分の事を認識してくれている以上、そこに存在していたかった。
 


 アリスの白い指先が伸ばされる。虚空を撫でるそれの先端が、少しずつ光に蝕まれようとしたその時であった。

「――アリス!!」

 声が聞こえた。光を貫く凛とした声が。

「な……棗さん……?」

 真っ白にぼやける視界に闇が差す。それは、夜の帳の如く靡くコート――否、漆黒の鬣であった。

「え……!?」

 尖塔を駆け上がる蹄の音が、アリスを浸食していたノイズを打ち消す。その尖塔の如く反り立った二本の角に、光を覆い隠してしまいそうな黒の巨体は恐ろしげなものであったが、一瞬だけアリスの視線とかち合った瞳は、棗そのものであった。

「棗、行きますよ!」

 エニグマの声が下層から響くと同時に、アリスを包んでいた光に炎が走った。不思議と熱さを感じないそれは、まるで導火線をなぞるかのように魔法陣を描く。

「――封印の魔法、Aliceシステムを一時停止させる気か。そうはさせん!」

「アリス、手を伸ばせッ!」

 エンブリオが壁に埋め込まれたレバーに手をかける。
 それが下ろされるよりも早く、アリスは右手をそっと伸ばした。ついさっきまで動かなかった体も、今なら自由に動かせる。重力がアリスを捕まえるより早く、尖塔から飛び降りた棗が彼女を浚った。

「棗さん……!」

「アリス……。無事だったか」

「はい!」

 アリスは二角獣の姿をした棗の首っ玉に抱きつく。その表情には安堵と歓喜が満ちていた。
 壁を駆け下りて下層へと降り立つ棗。鬣に顔を埋めて再会の喜びを表すアリスを見て、魔法を解除したエニグマは「やれやれ」と肩を竦ませる。その顔は、何処か楽しそうであった。
 棗に促され、アリスは彼の背からそっと降り立つ。羽根のように軽かった身体には、確かな重みが戻っていた。まるで、存在理由を取り戻したかのように。

「その声は、月詠棗か……。まさかお前達二人が生きていたとは思わなかったが、それ以上に驚いたな。お前の、その姿は」

 エンブリオは静かに三人を見下ろしていた。その間には、光で作られた魔法陣が不気味に揺らいでいる。
 棗の姿は正に異形そのもので、事情を知らぬ者が見ればインベーダーと間違えることだろう。天を指す二本の角は人間の世界に存在しない生き物である事を示していた。

「……魔獣族の二角獣(バイコーン)。それが、俺の正体だ」

 足元から沸き上がる影が二角獣の全身を包み込む。闇が引いたそこには、黒コート姿の青年の姿があった。アリスをキマイラから助けたあの青年の姿が。

「余計にお前が分らないよ、月詠棗。ネイティブのお前が何故、そこまでヒューマンに肩入れする」

「ヒューマンに肩入れをしているわけではない。俺はただ、戦う術を持たぬ者――力無き者を守りたいだけだ」

 棗の目に迷いは無かった。
 エンブリオはふっと苦笑めいた表情を浮かべ、自分の懐に手を入れた。それは、どこか自嘲的に見える。

「何が力無き者だ。そいつは、コードゼロを生み出すほどの力を持っているというのにな!」

 刹那、懐から取り出したのはレーザー銃だった。一瞬で狙いを定めれば、アリス目掛けて高エネルギーのレーザー弾が解き放たれる。そんなものを、アリスが避けきれる筈がなかった。

「アリス!」

 両者の間に割って入ったのは棗。バチュンという短い音と共に肉の焼ける匂いがつんと鼻を突いた。

「棗さぁん!」

 アリスの悲鳴が響くと同時に、矢のように放たれた聖焔がエンブリオの右手を焼く。「ぐぁっ!」と短く悲鳴をあげれば、忌々しげにエニグマを睨みつけた。

「棗さん……また……」

 また自分の所為で怪我をしてしまった。

 アリスは涙を零すことすら忘れ、蹲る棗に急いで駆け寄る。どうやら、レーザー弾は肩を掠ったらしい。細い眉を苦悶に歪めるも、右手でアリスを制する。

「あ、案ずるな……。俺はネイティブだ。傷の治りは早い……」

 覚束無い足取りでありながらも、棗はエンブリオに相対する。その双眸に宿った意思は、決して揺らぐことは無かった。

「……馬鹿な。ネイティブだろうがエンシェントだろうが、今の出力で無事なわけが無い……!」

 現に、コートが焼けた所為で、火傷を負った素肌が痛々しく晒されている。溶けた衣服は焼けた肌に張り付き、表皮が焼き払われた肩口からは紅い血が滲み出す。
 実際、蹲って悶絶するほどの痛みなのだろう。エンブリオを睨む棗の指先が僅かに震えていたが、痛みを打ち消すかのように、ぐっと拳を握り締めた。

「何故だ……」

 エンブリオは狼狽していた。信じられないものを見るような目で棗を見つめている。

「何故自らをそこまで殺し、犠牲にして、弱者を守ろうとする!」

 棗は、会ったばかりのアリスを自分の身を犠牲にして何度も助けた。そして、過去のエンブリオも。

「俺はただ、二度と喪いたくないだけだ。自分が守れなかったものを、増やしたくないだけだ。――お前もそう思っている筈だろう。お前が犠牲にしても構わないと思っていた者達こそ、お前が本当に守りたいものでは無かったのか!?」






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