エナ=エンブリオは十年以上も前の事を回想しながら、自分らしくもないと頭を振る。 今はただ、自分の使命を果たせばいいのだ。一刻も早く人類進化計画を成し遂げ、人類が再びヒエラルキーの頂点に立つようにと。 エンブリオは単身でエンブリオプラントへと向かった。気を失っているアリスは人間ではありえないほど軽く、女性であるエンブリオにも軽々と抱える事が出来た。 プラントのヘリポートに降り立てば、ヘリを停めてプラント内へと足を踏み入れる。指紋照合に顔認識、DNA照合と何重ものセキュリティを抜け、無人のプラントの奥深くへと沈んでいく。 此処では自然の音が存在しない。 だが、人工的な機械音が響くプラント内は、闇の静寂とは程遠かった。そう思うたびに、棗の背中を思い出してしまう。 「闇……か。あの男が持っているのは夜の闇。包み込むような安らぎ、か」 目を閉ざしているアリスの顔を見下ろしながら、エンブリオは自嘲気味に笑った。 「しかし、月詠棗……。思い返してみれば、あの頃と全く変わらない姿だな。若作り……というわけでも無いのだろうな。精神は良くも悪くも歳相応だ。もしかしたら……」 ふと、エンブリオは或る考えに行き着いた。今の彼は精神も年齢相応だが、十年以上前に出会ったあの時はどうだったのだろう、と。 「早熟の種族……。もし、あの男がヒューマンではなくネイティブの何らかの種族であったのなら、納得は出来る」 長い回廊を歩く足音は一つ。人間たるエンブリオが奏でるそれすらも機械の様に規則的だった。 このプラントの秩序を乱すものは一つたりとも無いと思えた、その時である。 「……ん、ぅう……棗さん……」 アリスの整った眉が歪められる。覚醒の動作一つ一つが彼女をリアルに見せているが、人間に近ければ近いほど嘘に見えてくる。 奇妙な苛立ちが湧き上がってくるも、エンブリオは冷静を努めた。 「ふん、ようやく目覚めたか。だが、残念だったな。お前のナイトはもう居ない」 「な……、どういう事!? 棗さんとエニグマさんを何処へやったの!?」 食って掛かるアリスであったが、次の瞬間、彼女の表情は驚愕に歪められた。起き上がろうにも、体が動かないのである。 「お前の体に少々細工をさせて貰った。とは言え、勝手に生まれた情報思念体……。元に戻すだけの話だがな」 アリスの表情がさっと強張る。元に戻すということは、それ即ち、アリスの思念を消去するという事である。そんなアリスに追い討ちをかけるように、エンブリオは感情の無い声で続けた。 「そうそう、お前の質問の回答が未だだったな。棗とエニグマは廃棄物処理施設に転送した。所謂、失敗作の墓場だ。内部は入り組んでいて、例え見取り図があろうとも迷子になるほどの場所だ。二度と出ては来れまい」 それに加え、目撃者の情報によれば、正体不明の異形が施設内に潜んでいるのだという。 変質したネオヒューマンという説が有力だが、詳しいことは分っていない。施設に派遣した調査員は、調査内容を幾つか送信した後、全て行方不明になっているのだから。 エンブリオカンパニーはそれを指定危険物に認定し、パンドラの箱の如く触れないようにしていた。 一方、アリスは唇を小刻みに震わせながら絶望に打ちひしがれていた。 「棗さん、エニグマさん……。私に関ったばっかりに……」 アリスが父親だと信じていた志藤アキツもおらず、自分を守ってくれていた棗もエニグマも居ない。 それどころか、無関係な二人を巻き込んでしまったのだ。 大粒の涙が潤んだ目から零れるも、それはアリスの体から離れた時点で消滅する。まるで、最初から存在していなかったかのように。 (そう、私は最初から居なかった。私の存在を肯定してくれた人達は、居なくなってしまったのだから……) アリスの脳裏には、棗のことばかりが思い浮かぶ。 キマイラからアリスを救った後も、正体が不明であるにも拘らず、随分と親切にしてくれた。決して見返りがあるわけでもないのに、親身になって接してくれた。 彼の為であれば、自分はどうなろうとも構わない。そう思うことすら出来た。 だが、そんな彼が居ないのであれば――。 カツンとエンブリオの足音が止まる。厳重に閉ざされた扉が口を開けた先は、エンブリオプラントの中央施設であった。 入り口から先はバルコニー状となっており、下の階層は吹き抜けとなっている。その高さは、ビルの三階ほどの高さであろうか。壁一面に密集した精密機器に、所々に張り巡らされた魔法陣が科学技術と魔法技術のコンチェルトを奏でている。 まるで一種の芸術を見ているかのような錯覚に陥る巨大な室内の中央には、アンテナのように伸びた二本の尖塔が聳えていた。数メートルはあるだろうというそれは、無数の配線を絡ませながら不気味に鎮座している。 「コードゼロを生成する準備はほぼ整っていた。だが、志藤アキツがお前を連れ去った所為で、計画の進行が滞ってしまった」 エンブリオの無感情な声に僅かな苛立ちが含まれていた。 彼女は身動きが取れないアリスを尖塔の中央に向けて放り投げる。「きゃっ!」という短い悲鳴と共に、アリスの体は羽根のようにふわりと宙に舞った。華奢な体躯は吹き抜けの柵を容易に越える。 「――やっ」 全身に感じる自由落下と不安定な浮遊感。己の頭が重力に引き込まれ、尖塔目掛けて真っ逆さまに落ちていく。 自分は一階の床に叩きつけられて死ぬのだろうか。それとも、尖塔に突き刺さって死ぬのだろうか。 でも、情報思念体というのが本当ならば、『死』すらも偽物なのかもしれない。 そんな想いがアリスの胸を過ぎったその瞬間、びぃんと見えない糸に引っ張られるかのように、身体が停止した。 まるで時が止まったかのような感覚。舞い上がった髪も、力なく伸ばされた腕も、そのままの姿で動かない。否、動けなかった。 「あ……、何、これは……」 アリスはようやく自分が置かれた状況に気付く。なんと彼女は、二本の尖塔から伸びる光の糸に絡め取られていたのだ。それは宛ら、蜘蛛の巣に囚われた蝶の如く。 「コードゼロを生成するための装置――Aliceシステム。混沌界より引き出した情報と魔力を還元するためのシステムだ。……ふふ、お前には懐かしいかもしれないな」 「そ、そんな……」 顔を否定に歪めるも、アリスの中では抗えない感覚が芽生えていた。それは、母体の中で眠る胎児のような安心感。自分の居場所はここであると認識せざるを得ない感覚。 だが、 (――違う!) アリスは必死に頭を振り、『アリス』としての居場所を思い出す。 それは、自分の存在を認めてくれ、自分の手を確り握ってくれる相手。今までにも、自分が一体何者なのかが不安で仕方がない事が何度もあった。そう言った時は、必ず父親的な存在であった志藤アキツを思い出していたのである。 しかし、今は――、 (棗……さん?) きつく閉ざした瞼の裏に映ったのは、黒いコートを羽織った棗の姿であった。ゴーグルの下にあるのは鋭い眼差しだが、アリスはその瞳の奥にある優しさを知っていた。 ――俺にとっては、今のお前が『アリス』だ。 あの言葉が耳に残って離れない。今の自分を繋ぎ止めているのは、棗のその言葉だった。 「棗さん、本当に死んでしまったの……?」 アリスの頬に涙が伝う。潤む視界に映るのは、バルコニーから冷酷な笑みを浮かべてこちらを見下ろしているエンブリオである。 エンブリオが慣れた手つきでパネルを操作すると、アリスの両側を囲う尖塔が「ヴゥゥ……」という不吉な音を立て始めた。 (システムが作動する……。私は、消えてしまうの?) 情報思念体は本来生まれる予定が無いものの筈だ。エンブリオに逆らうアリスは消されてしまうのだろう。アリスであった記憶は全て無くなり、もとの無感情なシステムへと戻るのだ。 志藤アキツを必死に探した事、棗やエニグマに会った事、それらが全て、アリスの中で無かった事になってしまうのだ。そう考えると、無性に悲しくなった。 そんな感情も知るかと言わんばかりに、エンブリオの口元はくっと歪む。それは、目的達成を目前にした歓喜の笑みだった。 「これを完成させる前に、私の父は逝ってしまった。――だから私はその意思を継ぎ、コードゼロ計画を遂行する! 人類のためにもッ!」 高らかに響くエンブリオの声。それに輪唱するかのようにシステムが奏でる振動音は大きくなる。まるで、彼女を祝福するかのように。 絶望がアリスを包み、指先から徐々に『無』が蝕む感覚が伝わっていく。自分の筈なのに自分ではないものに侵される不快感に、アリスは絶叫をあげたくなった。 |