棗の目には、叫ぶエニグマとその背後のイレギュラー、全てがスローモーションに見えた。気持ちは焦っている筈なのだが、五感は極めて冷静であり、いつも以上に冴えていた。

(一か八か。此処で『解放』すれば、切り抜ける事が出来るかもしれない)

 事態は絶望的だ。今の状況では、自分が戻るにしろ逃げるにしろ、エニグマはイレギュラーに捕らえられてしまう。仮に自分が逃げたとしても、出口まで逃げ切れるか分らない。尤も、エニグマを置いて行く気は微塵にも無いが。

(覚悟を、決める時だ……!)

 棗の頬に汗が伝う。握った拳に爪が食い込み、薄っすらと血が滲んだ。それとは裏腹に、口元に自嘲の笑みが零れる。

(やれやれ。迷うことなど無かったな。元から、この選択肢しかないのだから)



 脳裏に『あの日』の光景がフラッシュバックする。
 インベーダーが集落を襲撃したあの日、空に浮かぶ大地が消えてから、集落へと戻ったのだ。集落を襲ったインベーダーは、世界が元に戻ると共に帰還したのだろう。その後、街に姿を見せたという話は聞かなかった。
 もしかしたら、生き残りが居るかもしれない。
 そんな淡い期待を胸に、当時幼かった棗はひた走った。疲労で足が絡み、隠し通路の中を何度も転びながら、やっとの思いで集落へと戻る。

 だが、彼を待っていたのは、そんな期待を容赦なく裏切る絶望だけであった。
 集落は、否、集落だった場所は酷いものであった。家の屋根が木っ端微塵になり、瓦礫が道を塞いでいる。
 そして、『同族』達の無残な遺体が、無造作に足元に転がっていた。食い千切られたような痕、切り裂かれたような傷、そんなものを深く刻み付けられた彼らは、光の無い目で空を見上げているではないか。

(何故、自分は生き残ってしまったのだろう)

 一族はその地でひっそりと暮らしていた。それが全滅してしまった今、棗は一人きりになってしまったのである。
 隠し通路の入り口前に落ちていた二つの遺体を見つければ、棗はがっくりと膝をついた。隠し通路の扉の前で横たわる母の遺体と、それを守るように重なる父の遺体。両者とも、苦悶の表情を浮かべたままであった。地面を濡らす夥しい血痕が、現場の凄惨さを物語っている。

(父上、母上……。二人は自分を逃がす為に捨て身で……)

 もし、自分に力があったのなら、少しは違った結末になっていただろうか。
 インベーダーを倒すまで行かなくても、集落の住民を逃がすだけの時間を稼ぐ事は出来たかもしれない。
 そう思うと、自分の無力さがどうしようもなく憎かった。自分に対する怒りの涙が、棗の頬を濡らす。
 その涙は決意となり、今の棗を作っていた。無力だった少年を、他者の為に戦いに身を投じる、勇敢なバニッシャーへと成長させていた。


 例え、恐れられようとも蔑まれようとも構わない。そう、自分の感情は要らない。自分は剣なのだから。

 ほんの少しの間だったが、共に行動した男の為に、棗は一歩踏み出した。もう二度と、目の前で守るべき人を失くさぬ為にも。


「棗……!」

 ふらふらとしながらもイレギュラーから逃れるべく走り出したエニグマが、悲鳴に近い声を上げた。なんと棗が踵を完全に返し、自分達に向き合ったのだ。

「何をしているのです。お逃げなさい!」

 棗の身を案じるエニグマだが、彼自身も感じている筈だ。イレギュラーの腐臭が、直ぐ背中に迫っている事を。何本もの触手が伸び、エニグマのジャケットの裾を絡め取ろうとした瞬間、

「『解放(リベレーション)』――!」

 濁った空気の中に、棗の凛とした声が響き渡る。
 切っ掛けの言葉を放った瞬間、棗の体は足元から吹き上がる闇に包まれた。急速に魔力が上昇するのを肌で感じながら、エニグマは思わず息を呑む。

 だが、それも一瞬の事。闇が晴れたかと思うと、漆黒の影が一陣の風となってエニグマの前に躍り出る。

「掴まれ、エニグマ!」

「……その声は、棗……!?」

 現れたのは闇色の毛並みをした二角の馬だった。
 だが、すらりとしたしなやかな体躯と、闇に溶けてしまいそうな雰囲気は、間違いなく棗のそれである。彼はエニグマの腕を咥えて背中に乗せると、後ろを振り返ることも無く地を蹴った。

 コンクリートを踏み潰さんばかりの一歩。次の瞬間、彼らは風となった。
 力強くも軽快に響く蹄の音は、汚泥の粘質な音を掻き消して、冷たい風は腐臭を遠ざけた。
 見る見るうちに小さくなるイレギュラーの姿を見送ると、エニグマは漆黒の鬣の主に向き直る。

「棗……。貴方は、ネイティブだったのですね?」

「…………嗚呼」

「しかも、魔獣族の二角獣(バイコーン)だったとは、道理で身軽なわけです。――身体能力が高いのも頷けますね。ですが、確か西洋の魔獣であったと思いますが?」

「ルーツはあっちかもしれないがな。だが、西洋で語り継がれているバイコーン二角獣とはまた別と考えてくれ。彼らは人との関りを避けている筈だ。恐らく、人の姿になろうとすら思わないだろう」

 一角獣(ユニコーン)と対を成す存在、二角獣(バイコーン)。漆黒の闇を纏う魔獣。
 棗達の一族は、何百年も前からこの国の山の中に住んでいた。いつから人の姿を装うようになったのかは分らない。だが、彼らは人間社会に溶け込む方を選択した。
 ヒューマン達との交流を避けるようになったのは、ここ数十年の事だろうか。科学が発展するに反比例するかのように、神に対する信仰心を失って行ってからである。

 棗達の一族は、人の姿をしても魔獣である事には変わりなく、その力はヒューマンを大きく上回っていた。それが故に、その地を守る土地神の一族という扱われ方をしていたのだが、いつしか、ヒューマン達は彼らに恐れを抱くようになったのである。
 恐れは溝となり、両者は共存を続けていられなくなってしまった。それ故に、棗の一族は人里との関りを絶ったのである。
 それでも、現存していた一族は人間社会に溶け込んでいた時間が長かった為、ヒューマンと変わらぬ生活をしていたが。

「…………エニグマ、悪かったな」

「何がです?」

「お前を、騙していた」

「おやおや、何を言い出すかと思えば」

 くすくすと笑うエニグマの他意の無い笑顔に、棗は思わず飲み込んでいた言葉を零した。

「……怒ったりはしないのか。俺が、己の正体を隠していた事に」

「いいえ? ヒトは誰しも、隠し事を持っているでしょう?」

 当然と言わんばかりのエニグマの言葉に、棗は溜め息を一つ吐いた。それは張り詰めていたものが和らいで行く証だ。

「このまま、一気にプラントまで行くぞ」

「ええ、致しましょう!」

 水路は途絶え、目の前には通路だけが続いていた。複雑な配管が張り巡らされる中、作業員用の案内板が目に入る。出口まで、あと少しだった。






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