だが、その瞬間、ピチャンという水音が棗の耳に届いた。単に水滴が垂れただけとは思えない、不自然な音。 「…………! エニグマ、下がれ!」 「――何っ!」 棗がエニグマを突き飛ばすように庇った刹那、濁った水の水底から『それ』が現れた。 バネのように飛び出して来た影は、水飛沫を上げながら床を抉る。そこは丁度、エニグマが居た位置であった。 間一髪で攻撃を避けたエニグマは咄嗟に体勢を整え、指先に魔力を集中させる。棗もまた、懐の呪符に手を伸ばした。狭い通路では蛇腹剣を振るう事は出来ないだろう。 「……っ! 何だ、こいつは……」 床を抉ったのは『腕』のようなものだった。ただし、腕のようであって、腕かどうかは分らない。それの表面は粘質なヘドロが纏わりつき、減り込んだ通路の一角に汚泥を作っている。 ずるりという音を立てながら、それはゆっくりと水の中から姿を現した。ぽたりぽたりと腐液を滴らせ、辛うじて泥の隙間から見える紅い双眸で二人を捉える。 「これは、インベーダー……? それとも……」 「まさか……こいつもネオヒューマンのなれのはてだと言うのか……!」 濁った水の中から二人を見つめているのは、泥の塊の如き『顔』であった。顔だと認識したのは、目のようなものと鼻のようなもの、そして、口のような虚ろがあったからである。 大きさは人間のそれではなく、口は大人一人を飲み込んでしまいそうな程に大きい。緩慢な動作で口を開けて腐臭を撒き散らす様子は、正に異形そのものであった。 「……『イレギュラー』」 棗がポツリと呟く。ヒューマンである事を曲げられたネオヒューマン。しかし、それですらなくなってしまったそれは、イレギュラーと呼ぶ他無かった。 「棗……、どうします?」 「不要な戦いは避けたいが……」 じりっと二人はイレギュラーから距離を取る。 だが、次の瞬間、ズガァァンという轟音と共に、二人の足元に腕が飛来した。ひしゃげた音を立てて減り込むコンクリートに、二人の足が思わず止まる。 その時、棗は気付いた。破壊されたコンクリートの破片が飛び散らない事に。疑問符を浮かべて、恐る恐るイレギュラーの腕を見つめると、即座にそれを理解した。 腕に纏わり付かせているのは、泥だけではなかった。泥の隙間から僅かに見えるピンク色と、そこから顔を出す白い物体に息を呑む。それは、何者かの一部――肉であった。 よく見れば、泥のあちらこちらから服の切れ端や他の生き物の一部が食み出している。その醜悪な腕は、ボコボコと形を変えるように波打っていた。それに合わせるかのように、徐々に、腕が掴んだコンクリートが消えていく。いや、腕に吸収されていく。 「喰っている……。エニグマ、走れ! こいつは此処にあるものを喰らっている!」 「何ですって!?」 棗が叫んだ瞬間、イレギュラーの泥の身体はざわりと蠢いた。水底からの振動が通路全体を揺るがし、水飛沫が二人の足を濡らす。 「逃げろッ!」 二人が濁った水から逃れんと走り出した瞬間、まるで鉄砲水のように泥が弾けた。否、それは泥ではない。イレギュラー自身だ。 イレギュラーはスライムのような泥の体を網のように広げ、先程の動きとは打って変わった俊敏さで走り出す二人を包み込まんとする。 振り向かずとも、イレギュラーの真紅の瞳が飢えた獣の目をしているのは明らかだった。飢餓に満ちた視線を背中に受けながらも、棗とエニグマは必死に走る。 「くっ! 後少しだというのに不運なものですね……!」 「早いな……。奴は恐らく、ここに捨てられているものを際限なく喰らって来たのだろう。生き物の他、機械も中に入っていた……!」 「という事は、私達も捕まったら食べられる、と?」 「かもしれないな……!」 イレギュラーは早い。棗が全力疾走をしているにも拘らず、距離を開く事が出来なかった。ぬかるみに足を取られながら前進するも、僅かに遅れているエニグマはイレギュラーとの距離を詰められる。 「――くっ! お眠りなさい!」 エニグマは振り向くと同時に、指先に宿した聖焔を解き放つ。 ヘビモス・イミテーションを焼いた白き炎は槍の如く猛然とイレギュラーに突進する。炎はイレギュラーを包み込み、その動きを止める筈――だったのだ。 しかし、イレギュラーがヘドロの滴る口を開いたかと思うと、あろう事か聖焔を飲み込んだのだ。イレギュラーに取り込まれた炎の光は、風に吹かれた灯火のように掻き消える。 「ば、馬鹿な……! 私の聖焔が……喰われた!?」 「驚いている暇は無い。早く逃げろ!」 棗の叫びが早いか、それともエニグマが踵を返すのが早いか。否、両者を切り裂いたのは蔓のように伸びたイレギュラーの触手だった。エニグマの小柄な体は、パァンという音と共に弾かれる。 「っあ……!」 押し殺した悲鳴と共に壁に叩きつけられ、表情は苦悶に満ちた。倒れるエニグマと、それを取り込まんと迫り来るイレギュラー。汚泥ともいえるスライム状の体から食み出すスクラップの姿が徐々に鮮明になり、数秒後にはそれらと同じ運命になる事を暗示している。 「……くっ! 棗、お逃げなさい!」 エニグマは立ち上がろうとするも、その足取りは覚束無い。直ぐに走れる状態ではなかった。 だが、棗は立ち止まったままだった。ゴーグルの下に隠れた漆黒の瞳は、壁の如き広がりをみせながら迫ってくるイレギュラーを見つめていた。 |