それから十分ほど、棗の感覚を頼りに進んでいると、周りの様子が変わって来た。濁った水には先程のような屍骸や衣類、あまつさえ、機具まで浮かんでいる。
 酷いほどに立ち込める悪臭に、エニグマの表情は無意識の内に歪んでいた。棗もまた、コートの袖で口を覆っている。気を抜けば意識を手放してしまいそうな程の不快感が、二人を包み込んでいた。

「酷い臭いですね……」

「そうだな。まるで、何かが腐っているような……」

 先程のような死骸がこの先に積み重なっているのだろうか。そう考えると、ぞっとしない。

「行き着く先が、我々の墓場とならなければ良いのですがね」

「そういう冗談はやめろ。縁起でもない。――一刻も早くここから脱出し、アリスを助け出さなくては……」

「アリス……ですか」

 棗の呟きに、エニグマはピタリと足を止めた。棗もまたつられるように歩みを止めると、神妙な面持ちのエニグマの方を振り返る。

「どうした。エニグマ」

「……棗、あの少女を救出したら、どうなさるおつもりですか?」

 アリスが探していた志藤アキツの行方は依然として不明。だが、エンブリオカンパニーのやり口からして、八割方処分されたと思って間違いはないだろう。重大な秘密を知っている逃亡者を生かしておく理由はない。

「志藤アキツが死亡していると言うのなら、エナ=エンブリオが言っている事が本当であれば、アリスの行く場所は本来の場所――Aliceシステムの中しか御座いません。……エンブリオは彼女を本来の場所へと連れて行こうとしている。貴方がエンブリオを阻止して、アリスを助けるというのなら、アリスを何処に連れて行くというのです?」

「…………」

 棗は漆黒の瞳を伏せた。アリスの過去が偽りであるのなら、彼女を何処に託し、彼女自身は何処に縋れば良いのだろうか。

「今は……分らない。だが、アリスがあのような顔をしないような場所を探したい。もしもの時は、俺が責任を持って引き取る」

 転送直前に見せたアリスの表情が頭から離れない。絶望という底なし沼に囚われながらも、希望に縋ろうともがき苦しむあの表情が。
 スッと顔を上げ、真っ直ぐな瞳を向けてくる棗に、エニグマは納得したように微笑む。

「そう、ですか。では、アリスの事は棗にお任せしましょうか」

「……嗚呼。それに、コードゼロの力で人類を進化させると言うが、俺はエンブリオのやり口が正しいとは思えない。コードゼロを生み出すのには……何か大きな穴があるような気がするんだ。巨大な力ほど、歪が大きい」

「つまりは、エンブリオの計画も阻止したいというのですね?」

 エニグマの問いかけに棗は深く頷いた。エニグマはにっこりと微笑むと、棗の肩をポンと叩く。その微笑に他意はなく、緊張を解かれた棗はきょとんと目を瞬かせた。

「今回、私のすべき事は調査のみだったのですが、そう言って居られなくなりましたしね。――このエニグマ、必ずや貴方のお力となりましょう」

 エニグマはそう言うと、やけに丁寧な動作で恭しく頭を下げる。慇懃無礼とも捉えられるその仕草も、不思議と不快感は込み上げてこなかった。
 寧ろ、棗の胸に宿るのは炎の如き心強さか。「有り難う」という短い言葉を返すも、その中には言葉では言い表せないほどの感謝の気持ちが包み込まれていた。

「ですが、棗。貴方がエンブリオを阻止したい本当の理由は、コードゼロ計画の所為で犠牲になる者をこれ以上増やさない為、ではないのですか? 貴方は、どんな犠牲も許さない――そういう方のようですから」

 トンと軽く小突いてくるエニグマに、棗は照れるような苦虫を潰すような複雑な表情をする。無言と共に半目を返すと、そのままスタスタと先に進みだした。

「おやおや、照れる事は御座いませんよ。私は貴方のそういう実直な所が気に入ったのですから」

「…………俺のことは良いから、さっさと出るぞ」

 くすくすと言う笑い声から逃れようと、棗は早足で先へ先へと進む。胸の中でむず痒い感覚が疼く中、最早、腐臭は気にならなくなっていた。

 延々と続いていたくすんだ灰色の壁には、いつの間にか複雑な配管が張り巡らされている。水没しているものは何らかの機器が多くなり、濁った淀みには油が浮いていた。

「施設の地下……でしょうか。もしかしたらここは……」

 エニグマは壁に掲げられたプレートを明りで照らす。そこに標されているのは、『エンブリオプラント』という文字であった。

「エンブリオプラント……! エンブリオカンパニーの巨大実験施設であり、コードシステムを開発している場所です。棗、もしかしたらこの上に……」

「アリスと、エンブリオが居る可能性が高い」

 圧迫感のある厚い天井には、上層に通じる出口は見当たらない。だが、機器が捨ててあるという事は、何処かに入り口がある筈である。

「やりましたね、棗。貴方のお陰に御座います」

「俺の……?」

「ええ。ここに辿り着くまでに、分かれ道が幾つもありましたでしょう? 棗が的確に道を示してくださったからこそ、エンブリオプラントに辿り着いたのです」

 同じような風景が広がる中、道標がないにも拘らず、棗は迷わずに道を選んでいた。そのお陰で、一度も戻る事無く、ここまで辿り着いたのだ。

「……俺はただ、五感を研ぎ澄ませていただけだ。こちらの方から風を感じたからな」

「ふふ。棗の感覚は動物並なのですね。普通の人間にはそんな真似は出来ませんから」

「…………そうだな」

 棗は小さく頷き返すと、コートを翻して踵を返す。目的地に辿り着いた今、何とかして上層へ向かう手段を見つけなくては。






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