魔法の明りは足元とほんの数メートルを照らすのが精々で、その先は完全なる暗闇となっている。二人は何処まで続くか分らぬ回廊を歩いていた。 時折、コンクリートに出来た水溜りを踏み締めては、油のように滑った水滴を飛び散らせる。 「どれくらい歩きましたかね」 「三十七分と五十二秒」 「結構歩きましたね。嗚呼、今、三十八分になりましたか?」 棗は息一つ切らさない。エニグマは軽口を叩くほどの余裕があった。 「おや。分かれ道のようですが」 エニグマが明りを掲げると、道が二つに分かれている。Y字路の道はどれも同じ造りで、交差点で何回転かしたら自分達が来た方角が分からなくなるだろう。 しかし、棗に躊躇は見られなかった。 「こっちだ」 「相変らず決断がお早いのですね。既に構造を把握したのです?」 「いいや。だが、こちらから風の気配がする」 「――ほう?」 迷わず右側の路を選び、コートを翻しながら先へと進む棗に、エニグマは思わず感嘆をあげる。 「風を感じるのですか。鈍い私にはさっぱりで」 困ったように肩を竦めるエニグマだったが、その仕草は何処となくわざとらしい。だが、棗は気にした様子も無く、 「ほんの僅かに。だが、気をつけろ。悪臭も徐々に酷くなってきている」 「臭いも?」 そう言われてみればそんな気がする。エニグマが感じたのはその程度であった。元々、腐敗した臭いが通路全体に蟠っていたので、強弱を感じる余裕が無かったとも言える。 彼自身、決して感覚が鈍いわけではない。寧ろ、鋭い方であるのだが、 (彼はどうやら、人並み外れた感覚を持っているようですね。……人並み外れた、か) エニグマは自分の心の独白を反芻する。向けられた視線に気付いたのか、棗は「何だ」と言わんばかりに首を傾げた。 「嗚呼、申し訳御座いません。少々お聞きしたい事が御座いまして。――棗は、いつ頃からバニッシャーの仕事をされているので?」 「十四年ほど前からだ」 「ゲートクロス事件直後、ですね。あの頃のインベーダーの数は今ほどでは御座いませんでしたが、人々にとっては脅威でした。何せ、対抗手段が無いのですから」 「そうだな」 頬に手を当てて深々と溜め息をつくエニグマに対して、棗の返答は端的なものであった。だが、 「勿論、コードシステムの開発も未だだった筈。では、貴方はどうやって戦ったのですか? たったの一年でインベーダーに対抗するほどの戦闘能力を身に付けられるとは思いませんが」 エニグマの蛇のように鋭い瞳が、目を見開く棗を捉える。棗の顔には僅かな動揺が含まれていた。 「……お前……」 「うふふふふ、そう睨まないで下さい。私は貴方の敵では御座いませんよ」 エニグマの笑みに敵意や殺気は含まれて居ない。だが、表面上は友好的な雰囲気を纏っているが、内面を窺い知る事は出来なかった。 棗は暫くエニグマを睨みつけていたが、やがて彼の視線を振り切るように歩を進める。 「元々、それなりに戦う術を知っていた。それだけだ」 「左様で御座いますか。では、そういうことにしておきましょう」 エニグマもまた、肩を竦めて棗に並ぶ。 棗が細身、エニグマは小柄とは言え、通路は男性二人が並んで歩くのには少々狭い。所々に蓄積したヘドロに足跡などがついていない所からして、ここを通る人間は居ないのだろう。では、ここは一体なんなのだろうか。 鼻を突くような悪臭が立ち込め、脇に溜まっている水は泥のように濁っている。空気は息が詰まるほど濃厚に淀んでいた。 「暴走した実験体を転送する場所……」 エンブリオが転送間際に言った台詞が頭に過ぎる。 「まるで出口の無い回廊のようですね。無限の牢獄と言えましょうか」 「……ネオヒューマンの墓場……か」 棗はふと足を止め、水が溜まっている水道の方へ視線をやる。暗がりの中で、濁った水の中に何かを見つけたのだ。 エニグマの明りに照らされたそれは、獣の背中であった。 「インベーダー……?」 息を呑む棗であったが、その疑問符を打ち消すかのようにヘビモス・イミテーションの事が頭を過ぎる。直ぐ隣に力なく浮かんでいるのは腕だろうか。 白い細腕は明らかに人間のものだが、肘から上に掛けては背中と同じく獣の固い毛で覆われている。 他の部位は水に沈んでいる為、伺い知る事が出来なかったが、それだけでもそこに居る者の異常性を痛感せざるを得ない。 「出来損ない――といった所でしょうか。不完全な獣化能力を身につけた末の暴走……ですかね。この子の末路は」 「あのヘビモス・イミテーションの試作という事なのか……?」 棗の横顔が苦痛に歪む。目の前の死骸がまるで身内であるかのように。 エニグマはそんな彼の顔を見つめていたが、やがて、半歩踏み出して膝を折った。跪くような姿勢で、そっと両手を祈りの形に組む。 「来たる浄化の日まで、汝の魂に安らぎのあらん事を――」 それは聖句の一部であった。祈りを捧げたエニグマは印を切ると、静かに立ち上がって棗に向き直る。短時間ではあるが、その一連の動作は厳かな儀式のようにも思えた。 「……流石は聖焔の使い手。神に祈りを捧げたのか」 「ええ、勿論に御座います。このまま、彼の者が彷徨っては可哀想ですから」 微笑むエニグマの表情は何処となく寂しげでいて、虚しささえ漂って来る。 科学技術が進歩した近年、人々は神に対する畏怖を忘れ、祈りを捧げる事が無くなってしまった。各地で忘れられた信仰が復活し始めたのが十五年前ほど――丁度、ゲートクロス事件が起こった頃である。異世界から訪れる数々の異形は、怪物として恐れられると共に畏怖の対象となった。とは言え、それは極一部だが。 エンシェントたるエニグマは、ゲートクロス事件のずっと前から神を信じて来たのだろう。彼は、今の状況をどんな心境で見ているのだろうか。 「さ、参りましょうか。体力があるうちに、脱出口を見つけましょう?」 にっこりと微笑むエニグマに、棗は思考を中断される。「ああ」と短く頷くと、再び二人で歩き出した。 |