「――め。……棗!」

 頬を叩かれる感触に、棗は眉を寄せる。覚醒し切っていない頭で、自分を叩く冷たい手を押し退けた。

「くっ……。俺は、気絶していたのか」

「ええ、私が知っている限り、数十秒だけ。そういう私も、先程まで気を失っていたのですがね」

 ゆっくりと上体を起こす棗に、エニグマは人差し指を唇に重ねてにっこりと微笑む。彼の笑みは相変らず不透明で、その真意は図りかねた。

「それにしても、酷いものですね。強制転送とアンチマジックの結界の所為で、体が思うように動きません。魔力界への依存が高いというのも困りものです」

 エンシェントでなければ、こんな醜態を晒さないのですが。と苦笑するエニグマの顔色の悪さは、暗闇越しでも伝わって来た。
 持っている魔力が強いからこそ、強制的な魔力の介入による影響を大きく受けてしまったのだろう。

「……エニグマ、無理をするな」

「お心遣いは有り難いのですがね、棗。そうも言ってられないように御座います」

「嗚呼、確かにな。それにしても、ここは一体……」

「暴走したネオヒューマンを転送する場所と聞きましたがね。現在位置までは流石に存じません」

 ピチャン、と水音が耳に入った。
 ようやく闇に慣れてきた目を凝らすと、自分達がまるで下水道のような場所に居る事が分る。二人がいるスペースから数歩先には水の通り道があり、濁った水は流れる事無く蟠りとなっていた。
 つんと鼻を突く異臭が、それはただの水では無いという事を告げている。湿った空気はコートに纏わり付き、じっとりとした陰鬱な重さとなっていた。

「ここを脱出する術を見つけなくては。……アリスが心配だ」

 恐らく、あの後はエンブリオがアリスを連れ去ったのだろう。棗の脳裏には、彼女の最後の顔が貼り付いていて離れなかった。棗は己の無力さを呪う。

「エンブリオカンパニーは埋立地に巨大プラント――エンブリオプラントを構えていた筈です。重要且つ巨大なシステムを隠すとしたら、あそこかと」

「そこにアリスが連れて行かれたかもしれない、という事か」

「ええ、推測ですがね。――しかし、志藤アキツは如何なさったのでしょうね。娘であろうとそうでなかろうと、アリスは彼にとって必要不可欠でしょうに」

 娘として可愛がっていたのなら――例えそれが娘の代わりであろうと――喪失を味わっている人間が手放すことは無いだろう。もし、そうでなくとも、Aliceシステムの核となるアリスを放置する理由が見当たらない。

「……志藤アキツは様々な事を知り過ぎている。恐らく……」

「エンブリオカンパニーに消された。と考えるのが妥当でしょうね」

 エニグマは深い溜め息を吐いた。

「社長たるエナ=エンブリオは手段を選ばない人物ですし、当然と言えば、当然でしょうが……」

「アリスが知ったら、悲しむだろうな」

 ポツリと呟く棗の顔は、浮かぶ表情こそ希薄なものの、瞳の奥に同情と悲しみを湛えていた。
 まるで、自分の事であるかのようなその様子に、エニグマは目を見張った。

「棗、アリスが本当にAliceシステムの核だとしたら、どうします?」

 未だに、アリスが父親とはぐれた可哀想な一般人の娘だと思っているのだろうか。アリスの正体に確信が持てずに、迷っているのだろうか。
 そう思ったエニグマだが、顔を上げた棗の漆黒の瞳に迷いは無かった。

「関係無い。『あのアリス』が無力で戦う術が無い事は事実。――俺は、バニッシャーとして彼女の目の前に立ち塞がる壁を切り刻むのみ」

 棗は立ち上がる。コートに絡みつく陰湿な空気を物ともせず、瞳の奥に確固たる意思を静かに燃やしながら。

「あの日、俺は誓ったんだ。俺と同じ想いをする者を増やさぬ為にも、力無き者を守ると……」

「――弱者を守る為に戦う……ですか。例え、見返りが無くても?」

「見返りなど要らない。俺はただ、守りたいだけ」

 棗が踏み出せば、エニグマもそれに続く。二人の足音は地下道によく響くが、棗の静かだが確りとした声がそれを包み込み、暗闇の中に手を伸ばす。
 エニグマは「そうですか」と微笑を湛えて相槌を打つと、掌の上に拳ほどの明りを出現させる。懐中電灯ほどの光が二人に道を示した。

「立派な信念――まるで騎士(ナイト)ですね。ふふ、棗に愛しい者が出来たらどうなるか、見てみたいものです」

 それとも、もう居るのですか?と軽口を叩くエニグマであったが、棗は無言で首を横に振った。

「愛しい者、か。俺は、他者が愛しい者を喪う悲しみを味わわない為にも、我が身を犠牲にしてでも誰かを守りたいと思っている。……だから、俺は誰かを愛せない。愛してもいけないし、愛されてはいけない」

 流石のエニグマも、その言葉に口を噤む。顔から笑みを消し、魔法の明りに照らされる棗の横顔を見つめた。
 棗の顔は、とても静かなものであった。浮かんでいるのは悟ったような透明な表情で、他者が入る余地が無い。

「俺は剣だ。ただ、標的を切裂くだけの剣。――剣に感情は要らない」

 その言葉に、岩より固い決意が表れていた。
 研ぎ澄まされた透き通った刃。まさにそれであるかのように。

「……早く出口を見つけよう。アリスが心配だ」

 前に進む棗の足取りは力強く、例え明かりが無くとも迷う事は無いだろう。だが、強い意思を背負う背中は、緊張で張り詰めていた。ある一点への衝撃で脆く崩れ去ってしまうという、危うげなバランスで成り立っているようにも感じられる。

 棗の背中を見つめながら、エニグマはそっと自分の胸を押さえた。胸の奥に走った、膿んだような鈍い痛みに耐えるように。

(決して脆くはないし、狭くもない背中。けれど、貴方は多くの事を背負い過ぎている)

 背負ったものは、棗自身をすっぽりと隠していた。本人すら、自分に気付けないほどに。

(貴方が、自分でそこまで背負い込むのは何故です? 何が貴方をそうさせているのです……?)

 決意を語った棗の瞳は、エニグマの胸に焼き付いて離れない。周りしか見えていない眼は、背負った物に押し潰される事も厭わないとすら言っていた。

 エニグマはそっと聖印を切る。願わくは、彼の者の目の前に立ち塞がる試練が、彼の者が背負ったものが、彼を押し潰してしまわぬようにと。







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