世界に異形が蔓延るきっかけとなった事件――『ゲートクロス事件』は十五年前に起きた。 それは、異世界の存在を研究している学者によって、世界と世界の壁が取り除かれるという事件だった。 それまで、人々は異世界の存在を半信半疑で居たのだが、ゲートクロス事件を介して、皮肉にもその存在を認めざるを得なくなってしまったのだ。 研究者曰く、自分達が住んでいる世界と異世界の間には不可侵ともいえる壁があり、その壁が両者の干渉を防いでいるのだという。 もし、その壁が消えてしまったら世界と世界は融合し合おうとし、巨大なエネルギー同士のぶつかり合いによって、世界同士の消滅が予測されるだろう。 正にその壁の除去が、十五年前に実行されたのだ。 空に異界の大地が、街の中に見たことも無い植物が生えた森が現れる。世界では幾つもの『異質』な空間が観測され、異形はこの世界へ腕を、足を、翼を伸ばして来た。伝説でしか見た事がない生き物が世界各地で暴れ出し、天は近付き森は侵食し、誰もが世界の終末を覚悟した。 だが、幸か不幸か、壁が取り除かれたのは一瞬で、直ぐにも世界同士の関係は修復されたのだ。 しかし、問題はそれからである。壁が取り除かれた事によって、世界同士を繋ぐ門が開きっ放しになってしまったのだ。本来ならば、資格ある者が特殊な手法を用いなくては、門を開く事が出来ない筈である。その上、門は自然と閉じるという特性を持っているのだが、壁が歪んだ所為で閉じる事も無く、閉ざす事すら出来ないのだ。 それが故に、異世界の異形が、この世界に雪崩れ込んで来たのである。異形と戦った事が無い、人間という脆弱な種族が主導権を握るこの世界に。 人間達の世界を蹂躙し、生活を脅かす異邦人は『インベーダー』と呼ばれた。街や交通機関が襲われ、十五年の間でインベーダーによる被害は数え切れない程となった。 人々は嘗て『魔法』という不思議な力を持っていたのだが、魔女狩りが行われ、科学が発展した今、古代の魔術を使う者は極僅かとなってしまっていた。現代科学が開発した兵器だけではインベーダーに対抗出来ないが故に、魔法の力は人類の希望となりえるのだが、それにしてはあまりにも使い手が少な過ぎた。 インベーダーがもたらす恐怖に疲れ、人々が彼らに屈しようとしたその時である。『エンブリオカンパニー』が『コードシステム』を開発したのは。 コードシステムとは、システムにプログラムされた不可思議な力――魔法を発動させるためのシステムである。これを用いれば、古代魔法使いに匹敵する力を得る事が出来るのだ。その際、魔法を『コード』と呼び、コードを扱う者を『コードユーザー』と呼ぶ。 コードの種類によって能力が異なり、発揮される力はコードユーザー個人の実力に左右される。また、コード発動の際の殆どは、呪文を唱えたり印を組んだり、何かを媒介にしたりという事が必要となっていた。 例えば、先程のバニッシャーのコード発動法は、呪符である。予め、呪符にコード発動の術式を描く事によって、呪文のアクションを省いているのだ。言わば、魔法の弾丸といった所か。 そして、システムを開発したエンブリオカンパニーは一躍して、世界に名高い大企業へと発展した。人々は新たなる希望の光を手に入れ、インベーダーと戦う事を選択したのであった。 さて、海に面した巨大都市『シティホライズン』は、セントラルエリアを中心に南側は海を埋め立てながら発展していった。ビルが立ち並ぶオフィス街や、常にイベントで賑わうスタジアムやテーマパークは、ここ数年のうちに急激に建設されたものであった。 道行く人々の肩がぶつかりそうなほどに人に溢れた都市であったが、それでも静寂に満ちた場所というものはある。 オフィス街を横断する大通りから離れた裏路地は、昼間ですら人通りが少ない。深夜でも人通りがある大通りを光とするのなら、裏路地は影だろうか。 そんな裏路地に立てられた古い貸しビルにも朝日は当る。ブラインダーの隙間から差す太陽の光に囁かれ、少女は目を覚ました。 「目が覚めたか」 聞き慣れない男の声に、寝ぼけ眼だった少女は一瞬にして覚醒する。翠色の双眸を見開いて起き上がると、窓際に若い男が立っていた。 その脇には、プリントアウトした電子新聞の記事を貼ったコルクボードがある。机の上にはシックな黒のノートパソコンが置いてあり、部屋の隅にはよく手入れされた観葉植物がひっそりと佇んでいた。 黒髪の男は、光を打ち消してしまいそうな漆黒の瞳を少女に向けている。そこに宿った感情は読み取り難く、寧ろ、奥底に隠されているように見えた。 「私……確か……」 青年の姿には見覚えがあった。バニッシャーと名乗ったコードユーザーである。青年がブラインドを開けると、眩しい朝日が少女を包み込んだ。 「あのまま放っておくわけにはいかなかったからな。朝食をとったら、家に帰れ」 青年は短くそう言うと、シンプルな造りのダイニングに視線を向ける。漂って来る芳しい香りは、エッグトーストだろうか。少女は自分の上に掛かった毛布を除けると、今まで横たわっていたソファに腰掛けた。 テーブルの上に並ぶ二人分の料理は、ついさっき作ったばかりなのだろうか。空腹でなくとも腹の虫が鳴りそうなほどに美味しそうであったが、少女は何故か食欲が湧かない。 「……あの、有り難う御座います。インベーダーから助けて頂いた上に、介抱までしてくれて。――私、アリスって言います。宜しかったら、お名前を教えて下さい」 ぺこりと頭を下げるアリスに、青年は数秒の沈黙を返す。ゴーグルに隠されていた顔立ちは精悍で、年頃のアリスの目を惹き付けるのに充分であった。 |