凶風を切り裂いて飛来したのは一枚の呪符。 キマイラが爪を振り下ろそうとした瞬間、バヂッという耳障りな音と共に呪符から溢れ出した電撃に阻まれる。 肉の焼ける臭いを撒き散らしながら、キマイラは地に落ちてもんどりうつ。少女は突如、目の前で起きた出来事に驚愕しながらも呪符が飛んで来た方角を見上げた。 オフィスビルの入り口――迫り出したエントランスの上に、『それ』は居た。 月光を背に受けながら佇むシルエットは夜に溶ける闇色のコートを羽織り、冷たい風に靡かせている。漆黒の髪にしなやかな体躯のその人物は、青年だろうか。夜だというのに両眼を覆うゴーグルをしており、口元には表情らしいものはない。 少女は感じた。彼こそが静寂に満ちた領域に相応しいと。 自分とキマイラはただの侵入者であり、この青年は夜の中に住み、夜が生み出す静寂を守っているのだと思った。 そう錯覚するほどに、その青年は闇に溶け込んでいた――いや、闇の化身のようであった。 息を呑む少女の前に、青年が音を立てずに舞い降りる。 「……怪我は?」 静かな声であった。少女は思わず、静謐な領域にノイズを走らせてしまった事を恥じた。それでも、青年の表情を読み取る事が出来ぬまま、警戒の眼差しを向ける。そう、彼が味方とは限らないのだ。 「大丈夫よ。……あの、さっきの不思議な力はもしかして『コードシステム』? ――貴方は、『コードユーザー』なの?」 呪符を拾い上げる青年は、少女の質問に頷きを返した。複雑な陣が描かれた呪符に『力』を込めながら、キマイラと対峙する。 「『バニッシャー』だ。インベーダーからお前達のような一般人を守るべく活動している」 バニッシャー――標的を消し去る者を名乗った青年は、ゆらりと起き上がるキマイラ目掛けて地を蹴った。全てを包みこむ闇夜のようなコートを翻し、キマイラ目掛けて呪符を投げ放つ。呪符は電撃を纏いながら矢のように標的に向かうも、キマイラは翼を広げて舞い上がった。 「逃走する気か。そうはさせん……!」 呪符から逃れたキマイラは、焼けた右腕をだらりと垂らしながら上昇する。 形勢が不利だと悟ったのだろうか。翼の音は飛翔能力を持たない人間を嘲笑うかのように響く。 だが、青年は諦めるでも悔しがるでもなく、或る一点に目を止めた。それは、上昇するキマイラの傍らに佇む街灯である。 少女が視線の先を追ってそれに気付いた頃には、青年は既に目の前には居なかった。 異形の魔獣キマイラは痛む前足を垂れさせながら、ゆっくりと夜空へ羽ばたいていた。元々飛行するのは得意ではなかったが、今は一刻も早く焼けるような痛みから逃れたかった。 突如現れた男の持つ『力』はいとも簡単に爪を弾き、それどころか腕を焼き焦がしたのだ。 長居は無用と悟れば、早々に退散すべきである。無力で餌になるしか道が無い人間など、この世界には沢山いるのだから。 ふと眼下を見下ろせば、へたり込んだままの少女の姿を捉える事が出来た。だが、標的が手の届かぬ所まで行ってしまったと悔しがる青年の姿が無い。 それに気付いた瞬間、風を切る音が耳に入った。 刹那、目の前に迫り来る刃。ブツンッという硬質な水風船を踏み潰したかのような音が響いたと同時に、獅子の顔は視界を閉ざされた。 「――GUOOOOOO!」 悲痛な絶叫を上げる獅子の顔の横で、山羊の目が捉えたのは、宙を舞う青年の姿である。その足元には街灯があった。それを足場にしたのだろうか。 青年が振り翳すは刃。鞭のように撓るそれは、漆黒の蛇腹剣である。無慈悲な刃は月光を吸い込み、闇と共にキマイラの光を完全に閉ざした。 少女は目の前で起こった一部始終に思わず息を呑んだ。 青年がキマイラの四つの眼を潰し、視界を奪われたキマイラは自らアスファルトへと墜落した。勝負は正に一瞬で、青年が街灯に飛び移った次の瞬間には、キマイラは地に落ちていたという程だ。 地に降り立った青年は気を失ったキマイラの傍まで歩み寄ると、容赦無く蛇腹剣を振り翳す。 「ここ三日間、周辺の住民を襲い続けていたインベーダーだ。出没場所を頻繁に変えていた所為で、なかなか会うことが出来なかったが――これで終わりだ」 風を切る音と共に、骨を砕く鈍い音が響いた。次いで聞こえて来る落下音は、キマイラの首が落ちた事を示している。切断面からほとばしる血飛沫が辺りを汚し、むっとする血の臭いが充満した。 青年は死体となったキマイラから踵を返すと、表情を変えぬまま少女の方に視線を向ける。 死んだキマイラと、闇を纏う青年。 二人の間には死と生という決定的な境界が敷かれているにもかかわらず、何故か青年の方が死に近いように見えた。それは、沈黙や夜から連想されるものが、死だからであろうか。 「ところで、お前は何故こんな場所に? 一般人がこの時間、この場所に居るというのは、何か理由があるのだろう?」 「じ、実は……!」 少女は現実に戻され、弾かれたように顔を上げた。 (この事を誰かに伝えなくては。自分が持っているこの情報を……!) だが、その言葉を口にする前に、闇が少女の意識を包む。今まで張り詰めていた気持ちが緩んだ所為か、それとも凄惨な場を目撃した所為か。 僅かに驚きの色を見せる青年の姿を最後に、少女の意識は静かなる闇の中へと落ちて行った。 |